東海道線開通と国府津駅

ウォークマップ「ホントに歩く東海道」の編集で国府津駅のことを調べていて、思い出した。小学校5年生のときに富士山登山に連れて行ってもらった。御殿場線の汽車(ではない?)が何度もスイッチバックを繰り返しながら登っていったことが印象に残っている。

私が乗ったのは沼津〜御殿場間だが、国府津〜御殿場も同じくらいの標高を登るだろう。手許の資料に、国府津駅の標高が61mで、御殿場は456mとある。
「国府津から曽我山の裾を北上して松田へ至り、酒匂川沿いに山北へ、そこから箱根外輪山と丹沢山塊との間を縫って小山~御殿場と上り、そこから富士山麓を裾野から沼津へと一挙に下る」

国府津停車場は、1887(明治20)年に新橋からの東海道線が開通して開業した。現在は沼津までの御殿場線の起点だが、じつは、1934(昭和9)年に伊豆の丹那トンネルが開通して現在の東海道線になるまで、これが東海道の本線であって、国府津駅は重要な駅だったのだ。

国府津駅前の開業100年記念のレリーフ
国府津駅前の開業100年記念のレリーフ

東海道線が箱根越えをするとき、足柄峠をトンネルで貫く案などが検討されたが、当時の土木工事技術では不可能とされて、この御殿場経由ルートが選ばれたそうだ。工事は、1886(明治19)年11月に始まり、2年3か月を要して、1889(明治22)年2月に国府津〜沼津が開通した。

この開通で、小田原や熱海は、鉄道の交通幹線である東海道本線から見放された。「鉄道唱歌」初版では、国府津駅を次のように歌った。
「国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず 箱根八里の山道も あれみよ雲の間より」

徒歩の東海道は、箱根八里の山越えで三島に至る。小田原・湯本を迂回するのは、当地の人には客の誘致上の大問題だった。鉄道唱歌にある「馬車」は、国府津〜小田原〜湯本を結んで、街道の東海道筋を走る「馬車鉄道」である。「小田原馬車鉄道株式会社」が設立されて、軌道が敷かれたのだ。現在の箱根登山鉄道の前身だ。

熱海へは、「豆相汽船株式会社」が設立される。どちらも1887(明治20)年である。この汽船で国府津〜熱海間を3時間半で行けたと資料にある。しかし、次のような記述が続く。
「国府津は港がないので、波打ち際から200mばかり沖合に停泊して、小舟をこぎ出す。汽船の船べりについている階段を縄の手すりをたより上る。客が上りきると、今度は、下りる客がはしけに乗り移る。汽船も波で上下に揺れ動き、客は足のすくむ思いだった」と記されている。

国府津の海
国府津の海

国府津駅の今昔

国府津の地名由来は、田代道彌著『西さがみの地名』によると、「国府に付属する津、つまり港」であるとし、田代さんはとても興味深い説を紹介してくれている。

さきほど国府津に港がない話をした。「港がないので」と書いたその港は、親木橋の下を流れる森戸川の河口だと田代さんは推測している。弊社の東海道マップの冊子解説(『ホントに歩く東海道 第2集』で、ここは交通の要衝だったと記している。岡入口交差点から北上する曽我道、富士見橋際交差点から左折で飯泉観音に至る巡礼街道、それになんと、北西方向へ矢倉沢往還に至る「府中道」がある。府中は「ふなか」と読み、国府の府だろう。

森戸川に架かる親木橋
森戸川に架かる親木橋

それで、この森戸川を北上していくとどうだろう。国府津駅を出た明治時代の東海道本線は、森戸川にぴったり沿って北上していくのではないか。下曽我を過ぎて、山岸川といったん名前を変えて、酒匂堰に合流する。旧東海道線(現御殿場線)も、今度は酒匂堰に沿って北上する。

上大井を過ぎて、今度は、酒匂堰が酒匂川本流へ寄っていき、御殿場線(旧東海道)も同じように並行して走っている。松田駅の先で、御殿場線と酒匂川はもっとも接近する。
酒匂川は、山北駅を過ぎて谷峨のあたりで鮎沢川と名前を変えるが、御殿場まで見事に同行しているのである。御殿場駅で、上りの前半は終了する。

御殿場駅を出た御殿場線は、今度は黄瀬川の源流に沿って下り始めるのである。今度もピッタリ寄り添って。黄瀬川は沼津駅手間で狩野川に合流して、駿河湾に注ぐ。
以上のことは、御殿場線が、もっとも低い沢(川)の沿い土地を選んで、つまり勾配を気にしてコース取りをしたことがよくわかるのだ。コースがどうように箱根の山を避けているかは、地図をみれば一目瞭然である。

さて、「丹那トンネルが開通するまでは、国府津駅は重要な駅だった」と、上に記した。なぜ、重要だったかというと、御殿場までの勾配を機関車が登るために、客車の後ろから後押しする補助機関車が必要で、その補助機関車の機関庫が国府津駅にあったからだ。また、可笑しいのだが、新橋から来た乗客は、機関車と同じように山越えの登りに備えて、腹ごしらえの駅弁を買った。これが、駅弁の発祥だったそうだ。今でも国府津駅前に東華軒の弁当が売られている。

山越えに備えた補助の蒸気機関車を連結するために、機関車を揃えた機関庫は、上から見ると扇形だったので、扇形機関庫と呼ばれた。そこに、最盛期には70輛の機関車が配置されていた。今は、駅東側にJR職員住宅となって昔の跡かたもない。

現在、国道沿いにのんき亭という食堂があり、この食堂はかつては駅前にあって、いつも多くの鉄道員で賑わったそうである。マップ現地調査では、こののんき亭で昼食をとった。店内には当時の写真などの載った新聞があった。鉄道員の定番だったアジフライ定食(とん汁付き)も、そのままメニューにあった。

国府津駅近くの「のんき亭」
国府津駅近くの「のんき亭」

丹那トンネルが開通して、東海道本線が小田原経由となったのは、1934(昭和9)年で、小田原町や熱海町では念願が叶い、祝賀の喜びに沸いた。これで、小田原や熱海は東京・横浜からの至近距離となったばかりか、関西からの行楽客を呼び寄せたのである。

ずっと後の話だが、京都の私も、祖父母に熱海旅行や東京旅行につれていってもらったことがあり、熱海駅の両側のトンネルをホームからすごく興味深く見たことも思い出した。

小田原・熱海とは逆に、国府津駅は、往時の賑わいはすっかりなくなっているが、マップの調査で探したかったのは、その痕跡だったのだ。街道歩きの東海道とは関係ないが、かつての東海道線山北駅は、国府津駅同様に補助機関車の連結・給水などの重要中継駅として賑わったが、こちらも、当時からすればもっとひっそりとしてしまったことだろう。山村の鄙びた駅の趣しか、私は知らない。
東海道を歩いていると、本当に、歴史の跡、味わいに出会わないことはない。

2013年04月25日 (Thu) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載

【追伸】

国府津の「のんき亭」は、残念ながら2024年5月31日に閉店。

➡「タウンニュース」(2024年5月25日 小田原・箱根・湯河原・真鶴版)

定食屋のんき亭 創業84年 歴史に幕 5月末、移転先なく決断
https://www.townnews.co.jp/0607/2024/05/25/734659.html

該当マップ 『ホントに歩く東海道』第2集(保土ヶ谷宿~平塚・大磯)発売中