山科へ
「かねよ」から少し旧道を歩くと、三たび、蝉丸神社があります。神社入り口に、「車石」がありました。ここから先、車石が数か所に置かれているのを見ました。車石は、牛車が通行しやすいように敷かれた石だそうです。石は凹形になっていて、車輪がその轍を行く、と説明板に書かれていました。


旧道が国道1号に合流する手前に、京阪大谷駅がありました。駅前には、大谷町の案内柱と「元走井餅本家」の碑があります。「大谷」とは、かつてここが深い谷だったとの地名由来だそうです。そして、国道1号歩道橋の下には、「これやこの…」の句が書かれた大きな観光案内柱があり、その向かいには、やはり立派なたたずまいのうなぎや「炭火 大谷茶屋」がありました。

国道の左側をしばらく歩くと、「大津算盤 始祖・片岡庄兵衛」の碑と、美しい家屋がありました。かつては、「算盤と言えば大津、大津といえば算盤」だったそうです。
岡本永義さんの本に、月心寺の門内には「走り井」の井戸があって、この名水で作られたのが走り井餅だと書かれていましたが、残念ながら月心寺の門内には入れず、井戸を見ることが出来ませんでした。
その代わり、月心寺の塀に沿って急斜面を山の方へ登ってみました。すると、東海道がいかに深い谷間を走っているかということがよくわかりました。近くには「京都市山科区忠兵衛谷壱番地」という、何のためのものなのか、とても大きな看板がありました。2万5千分の1地形図を見ると、もっと面白い。よくぞ、「ここをお通りください」という地形が自然にできている、と感心します。道の理由を納得するのでした。それでも、ここは東海道の難所であったことは事実です。



ここで、京阪電車の「逢坂」のことを思い出しました。浜大津へ向かう電車では、先頭車両の一番前の席に座って、運転席の窓から進行前方がよく見えるのを楽しんでいましたが、この逢坂山を越えるとき、小田急線や山手線などでは絶対あり得ない急カーブ連続には驚きました。インターネットで調べると、この急カーブ走行が、ユーチューブに動画アップされているほど有名なのがわかります。

京阪電車京津線は、京都市内の地下鉄区間、この逢坂山越えの登山電車の区間、浜大津の路面電車の区間の3つの形を走る珍しい路線である、と、インターネットに書かれていました。私は、先頭車両でずっと逢坂山越えの風景を見ることが出来て、とてもラッキーだったなと、今思いました。
登山電車区間は、碓氷峠並の勾配66.7%(蹴上九条山付近)、逢坂山越えは61%だとも情報にありました。
山科追分~山科駅
東海道が名神高速道路の高架の下をくぐるところが、逢坂山越えの谷の出口(京からは入口)です。空間がぱっと開けたところ、国道を渡った向こう側に光明山摂取院があって、不動明王もいました。車石、道標もありました。
旧道はここで国道1号と分岐して、左の道を行きます。国道1号に比べて旧道は少し高いところを通っています。そして緩く下って、山科追分にきました。大きくて立派な昔の道標には、正面に「みきハ京みち」、左側は「ひだりハふしミみち」、右側には「柳緑花紅」とあります。
この道標の上に現代の道標があります。緑色地には中央に県境線があって、右は大津市、つまり滋賀県で、左は京都市。その標識の上にある青色の道標には、右矢印で京都、左矢印で宇治と書かれています。右は東海道、左は伏見へ向かう街道です。私は「伏見街道」と言っていましたが、もっと遠くを指す「大坂街道」「奈良街道」とも言うのだそうです。

家から出てきた老婦人に「どちらへ?」と聞かれて、「東海道を山科へ」と答えると、「気をつけておいきやす」と言われました。ありがとう。
追分から右に入って進むと、追分町の説明柱がありました。「分かれ道で馬子が馬を追分け」たそうです。
続いて、天守閣のような櫓が屋根に乗った閑栖寺の門が見えます。門前に「東海道」の石柱と、「車道復元」と書かれた下に車石が置かれていました。また、「境内に一部復元」との説明板もあってわかりやすいものでした。

横木町地蔵尊は屋根囲みで保護されていました。「旧藤尾小学校跡地」という石柱もありました。
国道1号に合流するところに、「旧東海道をお歩きの皆様へ」という案内が親切にあって「この歩道橋をお渡りください」と書かれていました。
国道を右側に渡って少し行くと二股があり、さらに右へ進むと大きな石柱に「三井寺観音道」とありました。小関越えの分岐です。小関とは東海道の大関に対する名前だそうです。大津の札の辻で分かれた小関道が、ここで終点(起点)になるのですね。

そのあと善福寺というお寺があって、そこに入る小径に「庖丁研ぎます三百円」という、達筆の小看板が目を引きました。また塀の中に埋め込まれたお地蔵様も見つけました。

四宮駅を右に見て東海道を進むと、徳林庵があります。ここで若い女性が私を待ちかまえていたように話しかけ、一枚のマップを手渡しました。「今、近隣の散策でシールを集めると、景品がもらえます」とのこと。1時間あれば十分回れると言われて、シールも景品も興味はありませんが、回る箇所に珍しいところがあると聞いて、行ってみることにしました。結果は全部回っても、1時間はかかりませんでした。
マップをよく見ると、「弦楽上達祈願めぐり」とあります。「弦楽器と福祉の神様人康(さねやす)親王史跡をめぐる」ともあります。人康親王は、平安時代の仁明天皇第四皇子で、目を患い、笙や琵琶を得意として、後に琵琶法師の祖と仰がれたそうです。四宮大明神は、女性が教えてくれた珍しい祠でした。案内がなければ絶対立ち寄れない路地の裏に見つけました。

徳林庵には、山科地蔵があります。「おこしやす”やましな”協議会」の案内板があって、「京 東の門番 東海道の守護仏」と書かれています。1157年に後白河天皇の勅命で、京都の主要街道6ヶ所に地蔵が安置されたと、この説明書にありました。他の主要街道にある地蔵は、伏見地蔵、鳥羽地蔵、桂地蔵、常磐地蔵、鞍馬地蔵です。「京都に入る時の厄除け、東海道の門番」ともあります。
マップのコース順は、諸羽神社→徳林庵→十禅寺→人康親王宮内庁墓→四宮大明神ですが、私は徳林庵から始めました。全部まわりました。このコースにはなくて、マップには記載のあるいちばん気になった「道祖神塚」に行こうと思いました。
四宮駅から旧東海道に入らずに直進し、そこから数十メートル先の左の道に入ったところに、その道祖神塚があると記されています。これだけは見逃すわけにはいきません。
説明によると、旧東海道に散らばってあった道祖神をここに集めたそうです。ところが、道はすぐに府道(旧国道1号)に出てしまいました。それで戻って一本目の道を入ると、若い女性がこちらに向かってきましたので、尋ねてみました。数分間もマップをじっと眺め続けて、そして。「わかりません。そんなものはありません」とのことです。おかしいなあ、ここの住民だというのに。
その小道を奧まで行って、突き当たりをコの字に元の道に戻り、さらに旧東海道まで戻っても、結局該当する道を見つけられません。目の前に不動産屋さんがあったので、入って聞いてみました。女性2人男性2人がいまして、誰もそんなものは知らないといいます。女性は6年もここにいるけど、聞いたことがないとのことでした。
それで説明を読み返すと、「駐車場の奧に」とあります。不動産屋さんの向かいは駐車場です。「これだ!」と私が言うと、一人の男性が、「ああ、あれか。 あるよ!」とのことで、急いで見に行きました。
駐車場には「関係者以外立ち入り禁止」の看板がありましたが、それにかまわずに奧へ行くと、ありました。柵に囲われて鍵がかけられていました。不動産屋さんの女性も、私についてきて確認したのでした。それで、道祖神の貴重な写真が撮れました。


その後、そこから歩いて、久品山来迎寺の前を通り過ぎると、もうよく知っている山科駅からの大通りに出ました。「ああ、ここに出るのか」と、昔から知っているこの道を、ここで初めて東海道であったことを認識したのでした。
これで、大津〜山科の東海道現地調査は、無事終了しました。山科駅は、昔とすっかり変わっていました。

「大津〜山科」おわり
2013年04月03日 (Wed)FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載
【該当マップ】 『ホントに歩く東海道』新訂第15集(南草津〜三条大橋、伏見)
