2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。

今回は、その第21回目です。
※赤字「」は映画作品名

熱海鋼一 ジョン・ウェイン

第二次世界大戦は終戦を迎え、フォードは20世紀フォックスとの契約が残っていた「荒野の決闘」(1946)を最後に、独立プロ、アーゴシィ・プロダクションを立ち上げた。

ハリウッド大手のプロデューサーが、監督権も編集権も無視し、勝手に作品を変えてしまう横暴に嫌気がさしていたからだ。フォードの名作と言われるこの「荒野の決闘」ですらキスシーンを足すなど、プロデューサーのザナックは、フォードに断りもせず改変している。

フォード 黄色いリボン 逃亡者

独立プロ第一作として、破天荒な神父を主役に再臨を描く意欲作「逃亡者」(1947)を作るが、客が入らず大コケ。赤字挽回のため、騎兵隊三部作「アパッチ砦」(1948)「黄色いリボン」(1949)「リオグランデの砦」(1950)、さらに「3人の名付け親」(1948)「幌馬車」(1950)と、フロンティアを讃える西部劇を立て続けに作った。

余談だが、黒澤明が東宝を辞めて立ち上げた黒澤プロダクションの第一作、公団の汚職で自殺に追いやられた男の息子の復讐を描く社会派作品「悪い奴ほどよく眠る」(1960)がコケて、「用心棒」(1961)「椿三十郎」(1962)と時代劇を作り大当たりする・・・もとを取る。このパターンがフォードのケースにそっくりだ。

ここに、映画という製作費のかかる、大衆相手のアートゆえのジレンマがある。作り手は<創りたいものを自由に創作するVS大衆の趣向に合わせて興業を成功させる>という、目的上で相反する重圧を常に抱えている。監督は自由に創りたいが、プロデューサーは収益を上げる責務があり、対立する。

自らプロダクションを立ち上げたフォードにも黒澤にも柔軟な姿勢があり、しかも得意な分野を持ち合わせていた。こうした娯楽作品が生まれたことによって、観客がより多く楽しめたことは作家にとって皮肉にも見えるが、傑作時代劇・西部劇が生まれたのだから、映画史にとっても嬉しいことであった。

フォードは西部劇の連作で収益を上げ、戦前から映画化を企画していた念願の「静かなる男」(1952)を撮りに、アイルランドへ渡った。(フォード復活2「静かなる男」参照

フォード 静かなる男

この「静かなる男」で、フォードは11年ぶりに4度目となるアカデミー監督賞に選ばれる。アイルランド移民二世のフォードは、生涯にわたり自らのルーツにこだわり、アイリッシュ魂を誇りとした。その故郷を舞台にしたラブロマンスだ。

アメリカで活躍したボクサーが、亡くなった母の郷土アイルランド、イニスフリーへ帰郷する。
主人公のジョン・ウエイン演ずるショーンは、まさにフォードの分身。その名はフォードの本名、ショーン・アロキサス・オフィーニから取り、恋人モーリン・オハラ演じる気が強いメァリー・ケイトは、フォードの妻メァリーと「メァリー オブ スコットランド」(1936)の主役、撮影後に不倫の逃避行をした相手、名女優キャサリン(ケイト)・ヘプバーンの名前を組み合わせた。

フォードは、架空の村イニスフリーに理想のアイルランド郷を設定、思いのたけを詩情豊かに謳った。ミュージカルのようにアイルランド民謡を多用し、ユーモアを交え、古くさい風習を打ち破るフォードらしい恋愛ものとなった。
イニスフリーは、アイルランドの詩人、イェイツの詩に出てくる架空の島の名前。フォードを尊敬するイーストウッドは、「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)でこの詩を感動的に生かした。フォードへのオマージュだろう。

この作品で、カメラマンのウイントン・C・ホックとアーチ・スタウトが撮影賞を得る。ホックは「黄色いリボン」(1949)でアカデミー撮影賞を得て、フォードと組んで二本目の受賞になった。実に美しいモニュメントヴァレイとアイルランドの風土を撮し出し、「捜索者」(1956)でもフォードと組む。

その年の作品賞は、サーカス団を描く「地上最大のショウ」(セシル・B・デミル)である。スペクタクルの巨匠として、無声映画時代からハリウッドに君臨したデミルは、監督賞を一度も得ていない。

フォード ミュージカル

デミルの最高傑作と言われる「十戒」(1956)は、映画史に残る壮大なスペクタル歴史大作と評価されるが、作品賞にノミネートされただけだ。同じような作品である「ベン・ハー」(1959 ウイリアム・ワイラー アカデミー賞11部門受賞)や「アラビアのロレンス」(1962 デビット・リーン アカデミー賞7部門受賞)のようにはならなかった。赤狩りの先頭に立つなど、その右翼的君臨ぶりが、アカデミー会員に嫌われたのだろうか。

その年でいえば、ミュージカルの傑作「雨に唄えば」(ジン・ケリー スタンりー・ド―ネン)が作曲賞などにノミネートされたが、作品・監督賞には上がらず、無冠なのは、今では不思議に見える。

ミュージカルで作品賞を得たのは「ウエストサイド物語」(1961 ロバート・ワイズ)「マイ ・フェア・レディ」(1964 ジョージ・キューカー)「サウンド・オブ・ミュージック」(1965 ロバート・ワイズ)、監督賞はその51年後、「ラ・ラ・ランド」(2016・作品賞など5部門受賞 デミアン・チャゼル)が初めてである。
ともかく、西部劇同様に、ミュージカルがアカデミー賞の対象として認められるのは遅かったようだ。

フォード 捜索者 静かなる男

第13回ベネチア国際映画祭(1952)で、「静かなる男」は、国際賞を溝口健二の「西鶴一代女・OHARU」などと共に受賞している。フォードは「逃亡者」についで二度目の受賞である。
ちなみに黒澤明の「羅生門」は、前年の同映画祭でグランプリを獲得し、アカデミー賞では外国最優秀賞に輝いている。

「静かなる男」以後、フォードは18本の映画をつくり、うち7本が西部劇であった。その中でアカデミー賞の対象になったのは、第二次世界大戦中の貨物船を舞台にした「ミスター・ロバーツ」(1955)1本。平板な出来だが、作品賞にノミネートされ、助演男優賞をジャック・レモンが受賞した。
次に作られた「捜索者」は、フォード入魂の西部劇、昨今ではフォードの最高傑作と言われるが、アカデミー賞にかすりもしなかった。

1966年:女性を描くのが苦手と言われたフォードが、女性を主役に据えた「荒野の女たち」(フォード復活7)をつくり、これが遺作となった。

1971年:ベネチア国際映画祭栄誉金獅子賞(多くの優れた作品を生みだした世界的映画人を称える個人賞)を受賞、ちなみに黒澤明(1982)、宮崎俊(2005)も受賞した。

1973年:3月31日AFI(アメリカ・フィルム・インスティチュート)の第1回生涯功労賞で「映画史の中で傑出した存在」として選出された。

フォード ベネチア映画際栄誉金獅子賞

この年の8月31日に、フォードは79歳でこの世を去った。

次号、番外編に続く。

熱海鋼一記

熱海鋼一(あつみ・こういち)

1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。

X(旧Twitter)(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n

熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)

【もくじ】
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf

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