2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。

今回は、その第17回目です。
※赤字「」は映画作品名

熱海鋼一 ジョン・ウェイン

ジョン・フォード復活17 Someday2:フォードのアメリカ

ハリウッドを代表する監督の一人、ジョン・フォード(1894~1973)は、Someday、いつか必ず良い日が訪れるとアメリカを信じ、西部開拓・フロンティアを好んで描いた作家として知られている。

今回は、フォードの代表的な4本の西部劇に描かれたSomedayに出会ってみよう。まず、西部劇の傑作と称される「駅馬車」(1939)と「荒野の決闘」(1946)のラストに、フォードが信奉したSomedayが象徴されていると思う。

ジョン・フォード 駅馬車
駅馬車

「駅馬車」(1939)は、ランドラッシュ(土地争奪戦)の壮大なシーンで知られる無声映画「三悪人」(1926)以来、13年ぶりに作られた西部劇である。無声映画時代に数多くの西部劇を作ってきたフォードが、満を期しての作品だった。

「駅馬車」にはフォードの反骨精神が大いに発揮されている。職業や階級による差別意識に対し嫌悪感を露にし、町を追い出された娼婦や飲んだくれの医者や前科者に心情を注ぐ。アパッチ族が駅馬車を襲うアクションシーンが7分も続くのは、当時としては破天荒なこと、プロ達から長すぎると非難されても、一向に構わなかった。反骨と自信の表れだ。「駅馬車」は、アクション映画の歴史を塗り替え、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015)などに引き継がれている(ジョン・フォード復活4・駅馬車参照)。

「駅馬車」のラストは、脱獄で牢に戻るべき若者と娼婦が国境に延びる一直線の道を、馬車で走り去るのだ。そう仕向けたのは、義を尊重する保安官と酔いどれ医者だ。医者は「あの二人は文明の毒にさらされることはないな」と言う。新天地へと走り去る二人の未来は、Somedayが約束され、フロンティアの希望に満ちている。なんとも爽快だ。

「駅馬車」から第二次世界大戦を挟んで、戦後初めて作る7年ぶりの西部劇は、「荒野の決闘・原題My Darling Clementine」(1946)である。

ジョン・フォード 荒野の決闘
荒野の決闘

西部史上有名な1881年に起きたOK牧場の決闘を扱い、主人公は名を馳せたワイアット・アープ。OK牧場の決闘は、フォードが生まれる13年前の出来事で、しかも、フォードはアープと実際に会っているにもかかわらず、映画では史実を自在に変えている。

ワイアット・アープは、映画のように牛追いをしていなし、聖人君子でもなく、トムストーンで賭博所の胴元と売春宿を経営しながら、連邦副保安官を務めていた曲者である。ただ決闘シーンは、アープがハリウッドに昔の仲間を訪ねて来たときに、フォードが会って聞いた話の通りに演出したとインタビューで答えている。しかし、決闘の年代を1年ずらし、相棒の医者ドグ・ホリデイを歯医者から外科医に変え、その上決闘で殺されていないのに撃たれて死んでしまう等々。大した改変だが、ここにSomedayを想うフォードの意図が隠されている。

アープは騎士道精神を持つ誠実な保安官として描かれ、演じたヘンリー・フォンダは、アメリカ男性の精神的な理想像として記憶されることになる。

相棒ドグの恋人にクレメンタインという女性を設定、アープは彼女に秘めた恋を抱くことになる。ラストで、“私はクレメンタインという名前が大好きです”と言って、一直線に延びる道を馬に乗り走り去って行く。来年また牛を売りにこの町に立ち寄ると約束し、二人は結ばれるだろう、Somedayは来る、と明るい余韻を残した。フロンティアの希望を象徴する見事な終わりかただ。

フォードは有名な史実をベースに借りて、西部劇にありがちな決闘でなく、フロンティアの心情を中心に据え、その佇まいを詩的に描いた。こうして、アメリカにSomedayを求めたアイルランド移民の二世、フォードは、「荒野の決闘」でSomedayがアメリカを作るというフロンティア神話を創り上げた。

フォードが晩年に差し掛かる「捜索者」(1956)は、フォード映画にかつてなかった西部開拓の暴力と人種差別が厳しく描かれた(フォード復活89:捜索者参照)。アメリカ映画協会で西部劇NO.1に選ばれている。

ジョン・フォード 捜索者
捜索者

前稿の冒頭で述べたが、息子をインディアンに殺されたジョギンソン家の母親は“Someday、このテキサスにもいつか良い日がくるだろう”と言う。開拓の最前線に住む家族は、Somedayに希望を託し危険にも立ち向かおうとしている。一方、インディアンは残虐に開拓民を襲うが、それは白人が彼らを虐殺し、土地を奪ったからだ。アメリカはその血の上に建国されていったのだ。

インディアンに拉致された少女を捜し、未踏の大地に分け入る主人公イーサン・エドワードと拉致したコマンチ族スカー酋長が応酬する暴力は、それぞれにとって正義であり、同時にお互いの憎悪をつのらせることになる。主人公を演じるのは「駅馬車」で有名になり、以来フォード映画の軸となるジョン・ウエイン。強いアメリカの象徴として世界を席巻する大スターとなった。人種差別主義者で暴力の化身、イーサンを体現し圧倒的だ(フォード復活4・ジョン・ウエイン)。

「捜索者」のラスト、拉致された少女を救い出したイーサンは、ジョギンソン家へ彼女を預けたあと、一人で荒野に立ち去ってゆく。そこに道はなく、砂嵐が吹きすさぶ。彼の背中にSomedayはない。しかし、そう言い切れるのか? 暴力がSomedayを築くのか? ジョギンソン家の玄関の扉が閉まり暗転する画面の問いかけは、重い余韻を残す。

重厚な映像美で、フロンティアに潜む暴力と差別を描いた「捜索者」は、アメリカそのものを暗示する寓話となった。そのオデッセイは「「タクシードライバー」(1976スコセッシ)「スターウォーズ」(1977ルーカス)「未知との遭遇」(1977スピルバーグ)などの世代に受け継がれ、今も輝きを放っている。

フォードは「捜索者」以降、かつて自ら描いたフロンティアの理想を否定する西部劇を作ってゆく(フォード復活6・晩年の反神話)。その中でも特に優れた「リバティ・バランスを射った男」(1962)で、フォードはSomeday、“いつの日か良い日が訪れる“の一つの答えを見ようとしたと思う。

ジョン・フォード リバティ・バランスを討った男
リバティ・バランスを討った男

「リバティ・バランスを射った男」は、西部にも東部の文明が来始めた頃の話だ。主役の若き弁護士ランサム・ストーダットが西部改革に燃え、東部からやってくるそうそう、ギャングのリバティ・バランスに襲われ、ついには、二人は決闘することになる。ランサムはピストルを撃ったこともない暴力否定派だ。相手は射撃名手の悪漢、勝負は見るからに明らかだ。

だが、この映画で真の主人公となるのは、フォードが言うように、出番は少ないが、カウボーイのトム・ドニファンである。トムは、西部にSomedayの灯を広げようとするランサムを応援し、彼を密かに守る。決闘でリバティは倒れ、ランサムはリバティを撃った男として、一躍有名になり議員となる。

トムと言えば、ランサムに恋人を奪われ、酒に溺れ、孤独に死んでゆく。強いアメリカを象徴してきたジョン・ウエインが演じ、悲壮感を漂わせる。

上院議員まで登りつめたランサムが、トムの葬儀のため町を訪れ、地元の新聞記者にリバティ・バランスを撃った男は、自分ではなくトム・ドニファンであると事実を伝えるのだが、記者は、その特ダネを記したメモを破り捨てる。“西部では、伝説こそが真実だ”と。

フォードがかつて描いた「駅馬車」「荒野の決闘」のフロンティア神話は幻想だったと、Somedayの内実をフォードらしく、心情で語るのだ。

ランサムは東部へ戻る列車の中で、車掌に“リバティ・バランスを撃った正義の男”だと賞賛される。ランサム夫婦は、伝説という美しい虚構を背負って生きざるを得ない人生を、苦虫を潰したように受け止める。彼は、英雄で名士であることを止められず、Somedayを実現する実力者と称えられるのだ。

ランサムにとって命の恩人のカウボーイ、妻ハリーにとって家族ごと信頼した元恋人のカウボーイ、そのトムが悪を撃ち、Somedayのために尽くすランサムを救った、フロンティアを支えた張本人なのに、彼は忘れ去られ、その名は歴史に残ることはない。

フォードは、このトムの犠牲に心情を注ぐ。アメリカへの信頼は揺らぎ、失望する70歳近いフォードの悲哀を、この映画はうつしている。ランサム夫婦が乗る列車は、神話の崩壊を乗せて、草原を走り去ってゆく。苦いラストだ。

ジョン・フォード ボローニャ映画祭と映画
ボローニャ映画祭と映画

今、フォードが思うSomedayは?世界各地で戦乱が起き、ジェノサイドすら平然と行われ、貧困が蔓延し、差別と憎悪の応酬が拡大している。分断の果てに「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024)が現実となるのか?主役のカメラマンたちはSomedayの大量死を目撃し、その行く先を追う。えん罪を晴らすSomedayを探すために、「正体」(2024)のように、権力と人間の壁に疎外され、命がけで潜んで生きるしかないのだろうか?奔放に生きたい思いが溢れても、「ナミビアの砂漠」(2024)のように、現実にSomedayが見えず、やり場のない日常に閉塞される。もはやSomedayは、実態のない幻想に過ぎないのだろうか?

アメリカのフロンティア神話を生んだ「駅馬車」「荒野の決闘」のSomedayの楽天的な希望は、「捜索者」「リバティ・バランスを射った男」のSomedayの表裏がなす苦渋は、今に通用しないのだろうか?

さまざまな映画が、Somedayを希望と絶望の狭間で描いている。Somedayに託すことは、たとえ苦難の中でも、時代が裏切っても、生きる糧として、希望の灯となり消え去ることはないだろう。私は、フォード作品の慎ましいSomedayは、オアシスのように、いつの時代とも呼応しあっているように思える。“いつの日か”・・・・。

熱海鋼一(あつみ・こういち)

1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。

twitter(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n

熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)

もくじ
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf

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