2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。
今回は、その第16回目です。
※赤字「」は映画作品名
ジョン・フォード復活16 Somedayー1:フォードのアメリカ
「捜索者」(1956)の一シーン、未知のインディアンの大地で彼らに拉致された少女を捜索している主人公のイーサンが、旅の途中で立ち寄ったジョギンソン家での会話、奥さんが言う「(厳しい時代は)永久に続きはしない。いずれはいい土地になるわ」(Someday this country’s gonna be a fine, good place to be)。
Someday、いつか、いつの日かアメリカは・・・・。フォードはそのフレーズを好み、アメリカフロンティアを信奉し、その姿を理想的に描いた監督として高い評価を確立した。
ハリウッドを代表する監督となったジョン・フォードは、アイルランドからの移民二世、1894年生まれ。当時のアメリカを支配する白人アングロサクソン系ワスプから、アイルランド移民は軽蔑されていて、良い職に就くのも厳しい時代だった。しかし、『ジョン・フォード伝』にも書かれているように、彼らにとってアメリカこそ希望の国だった。
映画が誕生したのはフォードが生まれる一年前のこと、1893年エジソンによって発明された。映画の都ハリウッドが生まれたのは1911年、ジョン・フォードが高校卒業後に俳優兼監督の兄フランシス・フォードを頼ってハリウッドを目指したのが1914年、小道具係や俳優などを務め、監督になったのが1917年、22歳の時だった。
フォード(1894~1973)と関わる時代と作品の関係をみると、フォードのアメリカへの関心の深さが見えてくる。
1:西部開拓時代 1803-1890年
フォードは開拓期終焉の4年後、その空気が濃厚に残る時代に生まれた。20世紀初頭の西部の町並みの写真を見ると、まさに西部劇そのものだ。生活ぶりもそう変わっていなかっただろう。
フォードが監督になって作った作品は136本、そのうち西部劇は54本である。フォードは当初、大スターのハリー・ケリーと組み「誉れの名手」など計41本の西部劇を撮り、無声映画時代に映像だけで語る表現を磨いた。西部劇はフロンティアを語るのに適していて、フォードの得意分野となった。「三悪人」「駅馬車」「荒野の決闘」「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」「三人の名付け親」「幌馬車」「捜索者」「バッファロー大隊」「馬上の二人」「リバティ・バランスを射った男」「シャイアン」等々。フォードは西部劇の神様とも言われたが、この分野でアカデミー賞(A、以下同)を得ていない。
西部劇が一段低いレベルと見なされていたためだが、フォードはそれは間違いで残念だと語っている。西部劇がアカデミー作品賞を得るのは、フォードの死後20年近く経った「ダンスウイズウルブス(A)」(1990)「許されざる者(A)」(1992)まで待たなくてはならなかった。
2:アパッチ族酋長ジェロニモ 1829-1909年没
インディアンで最も恐れられた一人。フォードは新聞に載ったジェロニモの写真を見ているだろう。「駅馬車」では、戦士ジェロニモ率いるインディアン部隊に、いくつもの人生を乗せた駅馬車が襲われる。その襲撃シーンは、アクション映画の歴史を塗り替えた。
3:有名な保安官ワイアット・アープ 1848-1929年
OK牧場の決闘は1881年、フォードが生まれる13年前の有名な事件だ。フォードはハリウッドを訪れたアープと実際に会い、OK牧場の話を聞いている。「荒野の決闘」で、主役のアープは、フロンティア魂の象徴のように描かれた。
4:リンカーン 1809-1865年
フォードが最も敬愛した大統領。「アイアンホース」、大統領暗殺犯誤認を描いた「虎鮫島脱出」、「若き日のリンカーン」等。
5:南北戦争 1861-1865年
フォードが生まれる30年ほど前に終わっている。フォードの周囲にも戦った生き残りがいただろう。「騎兵隊」は勇壮な仕立て、「西部開拓史」の南北戦争の部分、「捜索者」の主人公は南北戦争による心の傷を負っている。「周遊する蒸気船」「プリースト判事」「太陽は光り輝く」等は、南北戦争後の南部の良き気質を描いた名作だ。これらの作品は、フォードのアイルランド気質、陽気でフレンドリーで弱者に寄り添う正義感が強い気質に合ったようだ。
6:大陸横断鉄道 1869年
「アイアンホース」フォード29歳。大陸横断鉄道の建設が進む西部開拓とインディアン襲来を活き活きと映し出している。
7:第一次世界大戦 1914-1918年
「四人の息子」「戦争と母性」「肉弾鬼中隊」「果てなき船路」「ウイリーが凱旋するとき」「栄光なにするものぞ」等で描く視点は、戦争への怒りや悲惨や哀しみや皮肉と、その都度変えているのも職人フォードらしい。一次から二次世界大戦にまたがる士官学校を描く「長い灰色の線」が感傷的なのはフォードの弱点か。
8:アイルランド独立戦争 1919-1921年
フォードは1921年にアイルランドへ旅している。「鋤と星」「男の敵(Aアカデミー賞)」「静かなる男(A)」「月の出の脱走」(このオムニバスの三話目のサブタイトルは【1921】である)等で、万感の思いで故郷アイルランドを描いた。
9:大恐慌 1929-1939年
フォードの傑作の一本「怒りの葡萄(A)」はリアルな社会派、「タバコロード」、舞台はウエルズだが、不況に襲われる炭鉱での家族離散「わが谷は緑なりき(A)」。弱者へ注ぐ共感と差別への怒りはフォードの心情だ。
10:太平洋戦争 1941-1945年
フォードはハリウッドから離脱、出来たばかりの情報局OSSに参加、軍の映像記録のリーダーとなる。「ミッドウェー海戦(A)」「12月7日・真珠湾攻撃(短編A)」等のドキュメンタリーを撮り、戦後「コレヒドール戦記・原題:彼らは消耗品だった」「ミスター・ロバーツ」「荒鷲の翼」等、好戦的とは言えない戦争映画をつくるが、戦後に帰国兵士達に起こったトラウマに触れることはなく、疲弊した戦後のアメリカを鼓舞するかのように、しばらくフロンティア賛歌の西部劇「荒野の決闘」「黄色いリボン」「幌馬車」などを作り続けた。
フォードは他のハリウッドの監督と比べ、確かにアメリカを意識した作品が多い。アメリカを信じ、フロンティアの未来、Somedayを美しく描いてきたフォードは、晩年に差し掛かる61歳の時、「捜索者」(1956)を作り、アメリカの暴力の根幹を示し、作風が変わる転機となった。
「捜索者」で、主人公に今までのフォードではあり得なかった人種差別主義者を据えた。アメリカの開拓は、インディアンを暴力によって略奪することで成立していった姿を直視。多くのフォードファンは、そのフォードらしくない強烈なテーマに驚き、ついていけず、ハリウッドも評論家もなぜかただの西部劇と片付けた。
しかし、ポストモダンの先陣をきった映画だった。スピルバーグ、ルーカス、スコセッシなど、後にアメリア映画を牽引する監督たちに痛烈な印象を残した。20数年を経て徐々に評価が高まり、アメリカ映画の傑作と称えられるようになり、西部劇分野でもベストワンと言われ続けている。
その後、フォードは騎兵隊内部の黒人差別を描く「バッファロー大隊」(1960)で、Somedayと主役の黒人ラトレッジ曹長に言わせている。インディアンの方が崇高だと白人の傲慢さを暴露する「馬上の二人」(1961)、かつて賛歌した騎兵隊がインディアンをだまし討ちする「シャイアン」(1964)、この二本は、まさしくフォードによるフォード批判だ。そして、中でも屈指の作品、美しい西部伝説の虚偽を悲哀を込めて描いた「リバティ・バランスを射った男」(1962)を作る。
フォードはかつて作ってきた西部劇でのフロンティア賛歌を否定し、アメリカの現実の姿に近づこうとした。映画は重く暗くなる傾向にあったが、フォードはそれでもなお、希望、Somedayをアメリカに抱き続けようとしたのだろうか? 次号に続く。
熱海鋼一(あつみ・こういち)
1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。
twitter(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n
熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)
もくじ
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf
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