大山三の鳥居が見えてきた!

みなさん、こんにちは。
2025年も明けて早1カ月が過ぎました。歳を重ねる毎に一年の早さが身に染みます。

さて、今回は伊勢原市の二股コースを出たところの「咳止地蔵」からスタート。
いよいよ大山への道へと歩みを進めます。
一気に大山の麓まで行きたいところですが、もう目の前とはいえど結構なポイントがあるので、まぁ焦らず行くとして、「三の鳥居」手前までをご案内しましょう。

*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。

*ウォークマップ大山街道/咳止地蔵ー三軒茶屋跡ー峰岸団地入口ー八王子通り大山道ー〆引の道標ー千石堰用水ー三所石橋供養塔ー洞昌院ー道灌の墓ー太田神社ー台の道標ー七人塚ー上粕屋神社ー田村道ー石倉橋バス停ー石倉橋の道標ー石倉神社ー比比多神社ー宗源寺ー龍泉寺看板ー地蔵院易往寺ー比々多神社ー這子坂ー地蔵尊と水神ー諏訪神社

伊勢原市の二股コースを出ると渋田川が見えてきます。

いろいろな街道が入り交じる交通の要衝

渋田川沿いの一角に見えてくるお堂が「咳止地蔵」です。

名前の通り、痰咳平癒の守護仏として古来から崇められてきました。この周辺は多くの街道が交じり合うところで、地蔵の前は相模川の戸田の渡しから大山に通じる「戸田道」糟屋宿にも近く大山詣りをする人たちの信仰も得ていたそうです。
また「八王子道」にも通じるところでは、当時繭の市も立ったらしくとにかく賑やかだったようですね。

ここから伊勢原宿小田急線伊勢原駅方面へ行く最短ルートとなるのが「矢倉沢往還」です。

大山街道25-02

渋田川を渡り果樹園の脇を通って進みましょう。
細い道ですが、なかなか当時を偲ばせるような雰囲気もあります。
暫く行くと「峰岸団地入口」の交差点、そのほんの少し手前右側に見慣れた大山街道札と一緒に「三軒茶屋跡」という説明板があります。今は普通の民家前にちょこんと模型のようなものがあるだけですが、多くの街道が交差して大変賑やかだったこの辺りには、田中屋、石橋屋、角屋という三軒の茶屋が店を営み休み処の目標として呼ばれていたようです。

大山街道25-03

世田谷の三軒茶屋も初めは三軒の茶屋があったことから・・・ですが、こんなところにも同じように呼ばれた所があったとは!!なんだか嬉しいような・・・。

Sketchが前後しますけれど「三軒茶屋跡」の先、「峰岸団地入口」が繭の市が立ったという「八王子通り大山道」。この交差点を左に行けば「田村通り大山道」に合流、伊勢原の市街地(伊勢原宿)に入ります。

大山道の先には東名高速道路が見えます。東名のトンネルをくぐると、草むらに「〆引きの道標」
台座には、左「ひなたみち」、中央「七五三引村」、右「いいやまみち」。七五三引は,しめひき=〆引と読みます。昔はこの辺りを七五三引村と呼ばれていたのですね。

大山街道25-04

この先は「千石堰用水」です。
上杉家が戦に備え、館の空堀に水を引く為に造った用水で、「道灌堀り」とも呼ばれるそうです。造られた年代はおよそ、小田原後北条時代または江戸後期。この水路は、大山を源流とする鈴川から引水し、灌漑用水として利用されていました。昔は小魚が泳ぎホタルが飛び交っていたといいますから、なんとものどかな心地の良い風景ですね。さぞかし旅人の心も和んだことでしょう。

そして用水に沿って行くと「三所石橋供養塔」があります。「千石堰用水」に架かる三つの石橋を供養するために、1802年(享和2)「洞昌院」住職と村人たちによって建てられたようです。つまり、石橋を架けるのも大変だったということでしょうね。

ここから右の旧道に入っていくと、その「洞昌院」、続けて 「洞昌院」を開いた「道灌の墓」(胴塚)があります。下糟屋にある首塚から上粕屋にある胴塚までは、約3kmの道のり。胴と首がバラバラになっているというのは、なんとも悲しげではあります。
胴塚内にはたくさんの石造物(地蔵や道祖神、供養塔、庚申塔など)があり、いささか驚きですね。
大山街道は商人の行き来や住民の生活道路としても重要でしたし、特にこのあたりはたくさんの街道と交差していますので、鎮守や寺院も多かったでしょう。その後時代が変わっても、交通の要衝であり続け道路拡張工事などによって移設を余儀なくされたものたちが集まっているのでしょうか。結構見ごたえがありました。

「道灌の墓」北側の三差路を左に行くと「七人塚」とその先に「上粕屋神社」です。

道灌が主君上杉定正に謀叛ありと疑われ、定正の糟屋館に招かれた際に刺客によって暗殺されてしまいます。その時上杉方の攻撃を引き受け討ち死にした家臣七名の墓が「七人塚」。当時は誰を信じていのやら全くわからない時代ですけれど、どれだけ尽くしてもこんな最期は、死んでも死にきれません!

「上粕屋神社」も道灌ゆかりの神社です。先ほどの「七人塚」は最初こちらにあったそうです。
樹齢600年を越える大木が参道の両脇にそびえ立ち、神社の古さに加え荘厳な感じがします。
勧請年月日は不詳ですが、天平年間に大山寺を開いた良弁が勧請したと言われています。

そのまま進み三差路まで行っても良いのですが、「道灌の墓」迄戻り右へ入って「太田神社」を経て、先ほどの大山街道へ出ましょう。
そこから少し行くと用水沿いに「台の道標」が姿をみせ、正面には大山がドンと迫力満点で現れます。
左から道祖神、庚申塔、道標・・・なぜかカエルくんもいます。
庚申塔は青面金剛像と三猿、そして道標にもなっており右面には「享保六年・・・」 左は「・・・大山道」。道標正面は「上り 大山道」 右面には下り 厚木道 戸田道」 左面には「寛政十一年 未年六月 当村念仏講中」 裏面「右ハ 田村道 左ハ むら道」と彫られています。

大山街道25-06

更に進むと、芙蓉の花が咲き乱れる中に「庚申塔道標」をみつけました。背景がキレイすぎて道標自体も喜んでいるかのよう!
昔は伊勢原市三ノ宮竹ノ内の田中家敷地内にあったそうですが、道路造成用地となったため田中家所有のここに移設したものだそうです。右の庚申塔は道標にもなっていますが、場所が異なるため省略します。

いよいよ「石倉橋交差点」に近づいてきました。この石倉橋あたりに来ると、大山が目の前に迫り、少々感慨深げになるものです。
先ほどの用水路に沿った大山道を進むと、三差路に+変則的な交差点に出ます。上のSketchでいくと左側を行けば、先ほどの「上粕屋神社」「七人塚」「道灌の墓」です。

大山街道25-07

大山へ向かうには「石倉橋交差点」を経てまっすぐ右に。左へ曲がると「二の鳥居」がある「田村通り大山道」です。また、もうひとつ現在の県道612は「国府新宿大山道」

これら交通の要衝であった街道が交差する一帯、当時の暮らしぶりをはじめ、行き交う人々の姿や活気に満ちた様を想像してみましょう。
なんとも楽しげではありませんか。

ところで石倉橋と言うわりには、橋がありませんよね。
近くを流れるのは大山からの鈴川ですけれど、この川に架かっていた橋なのでしょうか?!と思っているときに・・・そう言えば、「三所石橋供養塔」の説明板に「石倉橋」があったような・・・。実際には「千石堰用水」に架かる橋だったのですね。現在は暗渠になっていて橋はありません。  
の不思議な石造物、なにか関連があるかしら?!

交差点近くにあった「石倉橋の道標」は現在移設されて、先の小さな路地を左へ入った鈴川沿いにあります。四方から頑丈な鉄骨で囲まれて、なにか不自由で寂しい感じです。
道標には「右 い世原 田むら 江乃島道」「左 戸田 あつぎ 青山道」。

元の道に戻って大山へ向かう次のT字路交差点が「石倉」で、道祖神反対側の奥に「石倉神社」

大山街道25-08

新東名高速道路をくぐると道にはみ出る大きな樹が見えてきます。これが子宝安産の守護神として日本でも希な「比比多神社」。この辺りは子易村でしたので、子易明神とも呼ばれ安産守護神として崇められています。
創立年は不詳、天平年中(729〜749)とされ当時守護の任にあった染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫)の勧請に始まるとされているようです。染谷太郎時忠は大山寺を開いたと伝わる僧・良弁の父とも言われているのだとか!!

大山街道25-09

社殿前の柱が極端に細くなっているのは、参詣者らが子宝安産を願いつつ少しずつ削り持ち帰った!からだと言います。向かって左が男子、右が女子の出産祈願だそうで、なんと現在の柱は三代目!!!
今は削り取ることを禁止していますが、それにしても凄いですね。左が圧倒的に細いということは・・・やはり当時、男子がとおとばれていたからでしょうか。

向拝の天井には色鮮やかに描かれていたのであろうと想像できる龍がいたり、境内社前のちょっと変わった狛犬、梛(なぎ)の葉守など見どころチェックポイントが豊富です。
また、神奈川県指定重要文化財である板絵著色歌川国経筆美人図絵馬があります。

「比比多神社」横の坂を上がると「宗源寺」地蔵堂があります。以前はこの角に茅葺き屋根の家があったようですが、現在は朽ちた家の名残があるだけです。

大山街道25-10

かなり急な坂を登っていくので、途中振り返ると子易の山里が一望できます。
境内で、ちょっと休憩おやつタイム。

大山街道25-11

「龍泉寺看板の辻」に来たら、今日の終点まであともう少しです。右上には「地蔵院易往寺」が見えます。

ここから大山道はまっすぐ、いよいよ「三の鳥居」ですが、少し左へ入った旧道「這子坂」を回って行きましょう。

左へ折れると、そこにはまたまた「比々多神社」
その横には以前あったらしい観音堂の石柱が立っています。
「町屋 史跡めぐり 子易聖観音堂跡」とありますが、詳しいことはわかりません。
こちらは「比々多神社」とありますが、先ほどの子宝「比比多神社」と関係があるのでしょうか?
古い史料を探さないと駄目ですね、ごめんなさい。
本書「ホントに歩く大山街道」にも、特に記述はありませんでした。

これらを過ぎて右へ入る坂道が「這子坂」です。
雰囲気はいかにも旧道っていう感じ。名前の由来は這ってあがるほどの急坂ということからだそうです。当時はそんな呼び名がつくほどに急坂だったのでしょう。
途中の石垣横に、やはり史跡めぐりの石柱「這子坂」が立っています。
またもう少し先へ行くと「地蔵尊と水神」が静かに旅人を見守っていて、ココロが和むひとときです。

大山街道25-12

地蔵尊を過ぎたら、元の大山道に合流します。
当時はこの「這子坂」の方が本道だったのでしょうね。

今は「伊勢原駅」から「大山ケーブルバス停」までは車用の専用道路ができていて、急行バスは途中停車しないのでそちらを走っています。大山道は道幅が狭く、通常の路線バスはこちらを行きますが、途中のすれ違いは、なかなか容易ではありません。歩いている際に何度かそういった光景に遭遇しました。今のバスはワンマンのため、このすれ違いが困難な箇所には、バス会社の人がわざわざ待機して交通整理をしているようです!!いやはや、ホントにご苦労様です。

緩いカーブに従って坂をあがっていくと、左側に「諏訪神社」
神木の樫の木がとても立派なのが印象的です。

ここら辺りから勾配も急になり、グッと大山界隈の古い建物や商店などが所々にあって、時代がミニワープしたような感じになります。
実際の当時はわんやわんやの人たちが行き交うところでしょうが、今はとてものんびり。まちの人たちも穏やかな暮らしぶりです。
そんなまちの様子をゆっくり見ながら、「三の鳥居」が目の前にといったところで今回はおしまい。

次回スケッチ紀行は15日目 その2。
「三の鳥居」から「大山ケーブルバス停」「こま参道」辺りまでをご案内します。
そしてその次が「阿夫利神社下社」へとなり、この連載ブログも最終回を迎えます。

みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。

それから改めて詳細はお知らせをしますが、川崎市大山街道ふるさと館企画展示室にて
約3年に亘り連載してきました大山街道スケッチ紀行の展覧会を前後半の2回に分けて開催することになりました。
前半は4月19日(土)〜6月10日(火)、後半は9月6日(土)〜10月26日(日)です。
Sketch原画と拡大プリント、マップ&イラストほか、風人社の本書ホントに歩く大山街道マップ販売などいろいろ考えていますので、どうぞお楽しみに!

岡本和泉/Izumi Okamoto

さまざまな「デザイン」を通して、社会や地域、環境、食、観光、ものづくり、文化などをつなぎ 新たな展開をするプロデューサー&クリエイター。 2015年からは”暮らしのデザイン”の一部として、地域に密着し日々の楽しさを広げる 地域独自のイベントや企画、地域活動も手掛け、長年住む世田谷の文化や知的資源、 自然を活かした地域ツーリズムなども多く開催している。
http://www.imincosmos.com https://www.facebook.com/Setayui/

2022年8月、新たに合同会社Produce any Colour TaIZを設立。従来の企画デザインやプロデュース業などに加え、画像技術による画像処理分野に手を広げ、文化財や古い写真の修復・保存、天文写真再現、画像技術開発、講座なども展開する。
https://taiz.jp

【以下の書籍とマップで歩いて描いています】
中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)

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ウォークマップ ホントに歩く大山街道
キャーッ! 大山街道!!