大山の手前、道路事情で二股に分かれたコースを行く
みなさん、こんにちは。
このところ急激に寒さが厳しくなっていますが、お変わりありませんか。
カラダの調整を十分にして、残り少なくなってきた2024年を元気に過ごしましょう。
さて、今回は「愛甲石田駅」から「石倉橋バス停」へと向かう途中にある久々の二股分離コース。
ここをぐるりと回って、次回大山の麓へと足を進める前段階です。
*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。
*ウォークマップ大山街道/愛甲石田駅ー浄心寺ー石田交差点ー土橋割地蔵ー小金神社ー道祖神(棗)ー道標ー白金地蔵ー歌川端ー石造物群ー糟屋下宿バス停ー普済寺ー十字路ー道灌橋ー大慈寺ー道灌の墓(首塚)ー高部屋神社ーR246上の陸橋ー丸山城址ー庚申塔ー東海大学附属病院ー粟窪神社ー八丈橋ー二股にある道標ー大山不動尊の道標ー寿経寺ー割地坂(日本ロジテム)ー愛甲石田駅
世田谷区以来、江戸から約60km地点に来て久々の二股ルートです。
ここを回らないと次へ進めませんので、今回は「愛甲石田駅」から出発してまた戻ってくるというコースになります。
旧道をさがすものの、見つからず
ルートの途中にある「庚申塔(道標)」に以下のような説明書きにありました。
「この庚申塔が作られた明治三十五年頃、大山参詣者は割地坂(現(株)ロジテム)の頂上で下糟屋宿へ向かう矢倉沢道と分かれ、この場所を通り咳止地蔵から大山へ向かっていました。
明治末か大正前期頃と思われますが、小金塚方面への道が造成されると、大山参詣者や旅人は割地坂を登る事を止め、小金塚方面への道を歩き、この道を歩く人は減っていったと思われます」
つまり、この旧道・・・行き着けるか?!
R246「石田交差点」から「割地坂」を通って高森へ入る尾折越の高台ルート(旧道)は、白金山団地ほか住宅街になっていて、途中までは道がわかりましたけれど、自然に家々で阻まれてしまいました。
その道すがら、地元の人だけが行き来するような細い小径がある風景をみつけましたが、それ以上は無理なため引き返した次第です。
日本ロジテム内を通る旧道は戻ってきた帰りに寄ってみましょう。
「石田交差点」から急カーブして「割地坂」を進み、「土橋割地蔵」を右手にみながらアップダウンを繰り返して行きます。
「道祖神(棗)」が新しく現在の建築物にあわせてきれいに保管されています。この辺りの地名が棗(なつめ)というので、そこから地域ではそう呼んでいるのでしょう。
棗は茶道具(茶を入れる)のひとつですが、棗のカタチに似ているところから付いたようです。
そのまま道を下って直ぐ、コースは右へと曲がっていきますが、その角にかなり崩れかけている「道標」が立っています。
この辺りを船着場と呼ぶのは、昔海だったと言われていますが、実際は海より何本かの川が氾濫して雨期には冠水していたようなので、その辺りから湖のような有様を「うみ」と呼んだのかもしれませんね。本書「ホントに歩く大山街道」にも、そういった見解が書かれています。
ここからちょっと寄り道、旧道を行くことにしましょう。
左手の奥に小高い森が見えますが、これが「小金神社」。「道祖神(棗)」手前の谷戸入バス停からも小田急線の踏切を越えて行くことができます(その方が分かり易い)。
その場合は手前に長慶寺があり、その中を通っていくのです。
※『ホントに歩く大山街道』では、「小金神社」が「小金塚神社」と表記されています。訂正してお詫び申し上げます(ちなみに、本書が下図として使用している国土地理院の1万分の1地形図も同じ表記になっています)。なお、『ウォークマップ ホントに歩く大山街道』(2021年発行)では「小金神社」と修正しました。下記訂正ページもご参照ください。(風人社編集部)
➡『ホントに歩く大山街道』訂正ページ
長慶寺のお墓の横を進みますと、その全景が姿を現します。
見るからに古墳っていう感じの、これまたゾクゾクする光景なのです。
なんと、その実態は4世紀末頃の円墳で標高36m。そして更にこの円墳が6mあるのだそうです。直径は約48m、墳丘南側で幅約10m、深さ約2.5mの周溝が確認されているそうです。
埴輪も出土しているようで、その発掘された朝顔型埴輪は南関東で最古のものとされているのだとか!
「小金神社」社殿下に竪穴系の埋葬施設が存在するものと思われる・・・と説明板にありました。やっぱり、ゾクゾクしますっ!
では、興味津々の古墳「小金神社」を後にして、先ほどの道に戻り更に進みましょう。
この辺りは先ほど途中で旧道がなくなっていた尾折越の斜面が右側に続きます。途中上に上がる道の角には道祖神があるはずなのですが、どうしても見つけられませんでした。どこかに移したかもしれませんね。
左手成瀬小学校のちょうど対面にある土手に道界という標識をみつけました。道界とは敷地境界の標ですが、なんとも風情のあるといいますか、ノスタルジックな光景です。
その先はY字型に道が分かれていて、右へ折れると荻野道。これが途中で無くなった旧道に繋がっているのですけれど、その痕跡があるかと行ってみましたがダメ、諦めて引き返しました。
このY字型の根本にあるのが「白金地蔵」。
1860年(万延元年)に、この地域の住人である茂田半左衛門が子宝恵授を祈願して建立し、地区信者の熱心な護持により厚い信仰を集め今に至ると、白金地蔵縁起なる説明板に書かれていました。
1996年(平成7)の台風で倒壊したものの、信者有志多数の協力で再建したそうです。
この角にJA伊勢原成瀬支所があります。今回のルートは飲食店どころかトイレや休憩をとるコンビニもなく困っていたところ、ふと思いつき立ち寄りました。
事情を話してトイレをお借りしたいとお願いすると、大変快く対応して頂きました。
街道歩きには必須の施設ですね!!ありがたいありがたい、頼んでみるものです。
本日の分かれ道コースへ
ここから本日のルート分かれ道になります。まずは時計回りと行きましょう。
緩やかな傾斜道を下っていくとその先に見えるのが「歌川橋」。かつては氾濫も多かったと言います。その名も歌川・・・をここで渡ると、今度は上りの行程。
新東名高速の高架橋を過ぎると「下糟屋の道祖神(道祖神や馬頭観音などの石造物)」があります。
そのままどんつきまで行き右へ折れますが、ここが柏尾道と大山道が合流する地点となります。
柏尾道は横浜市戸塚区の柏尾で、東海道から分かれて大山へ向かい、伊勢原市の下糟屋で大山道と合流します。
庶民の信仰の道・大山街道にはいくつものルートがあることを、すでにみなさんはご存じだと思いますが、柏尾道もそのひとつというわけです。
つまりこの辺りから下糟屋宿が始まります。江戸から約60km、旅籠や問屋、薬屋、万屋、質屋など多くの店が軒を並べていたのですね。
黒塗りの板塀や大きな農家などが並び、既に旅籠や問屋はもちろんありませんが、昔は大いに賑わっていたような宿の様子が想像できます。
右手奥には大山の姿も見え、もう直ぐだなぁと参詣者や旅人の心の糧にもなったことでしょう。
この宿の風情が残る大山道から横道を少し入っていくと、次なるスポット「普済寺」です。
こちらには、伊勢原で最大となる高さ6mを越える大きな多宝塔があります。
バックにしっかり大山の姿が重なり、なんとも大らかな気持になりました。
「普済寺」を出て粕谷上宿バス停の先の十字路を左に行き坂を下ると、渋田川に架かる「道灌橋」。
その橋を渡ると直ぐに太田道灌の供養塔がある「大慈寺」です。
「大慈寺」の供養塔は、非業の死を遂げた道灌の霊を慰めるために建てたと言われていますけれど、そこから少し先へ行くと「太田道灌公霊地」「道灌首塚」、とにかくこの辺り“道灌の墓”とされるものが数カ所あり、非常にややこしいのです。
また埼玉は越生にも道灌の墓なるものがありますよね。
道灌は25歳で武蔵野の原に海に臨んで城とまちを築く・・・これが江戸城・・・徳川幕府三百年の居城であり、明時以降まちは東京と呼ばれ城は皇居となりました。
つまり道灌は、東京の基礎を築いたとして多くの人に知られていますね。
幼いときから非常に利発で神童と呼ばれていたそうです。築城軍略の大家だけではなく、詩歌を好み風流を愛する文武兼備の人でもあったとか。たくさんの逸話も残っています。
太田道灌に別れを告げて元の道に戻りますと、右手に大きな神社「高部屋神社」が見えてきます。
創建は4世紀末と言いますから、先ほどの「小金神社」の古墳と同じ時代ですね。
平安から鎌倉時代にかけて大山一帯を含む荘園である糟屋荘を支配していた糟屋氏のゆかりと伝えられています。
現在の本殿は関東大震災による倒壊後に建てられたものだそうですが、倒壊前の主要な古財が数多く利用されているようです。
境内には「柏尾道道標」があります。
裏手からはR246が見え、架かる橋を進むと右手にこんもりとした緑の高台が広がります。
ここが「丸山城址」。糟屋左衛門尉有季(かすやさえもんのじょうありすえ)の居跡とされています。
今は公園として整備されていますが、室町時代から戦国時代にかけて存在していた城だと考えられています。現在も残る土塁の一部から推測すると規模は小さいですが重厚さを感じさせられるもので、室町時代後半のかわらや陶器類などが出土、道状遺構、炉址などもみつかったとあります。
下糟屋の交差点から右へ坂を下ると牛乳販売店がみつかります。
MAP上でも記されているとおり、この脇に「庚申塔」があるというのですが・・・これがまた目茶苦茶わかりにくい!のでした。
何度も辺りを行き来した結果、思ってもみない裏手の山道にあったのですけれど、これって、以前はここが結界でもあり、人々が行き交う道だったってことでしょう?!
いやぁ参りました。まさかねぇと思う草ボウボウの土手をあがったら、ようやく会うことができたのです。
散々探し回ったこともあり、もう急にお腹が空いてきたし足も疲れてきました。
でも、本当に何もないんですよ この辺りには・・・とガックリきているところに見えたのが、巨大な建物・・・そうです「東海大学附属病院」の白い壁面。東名からもよく見えるので、なんだか馴染み深さも加わって、そうですよ病院ならレストランというか食堂があるんじゃないかしら!!と。
人は食べる事に対しては、やはり必死に頭が働くものです。
いざ、進め!で大学病院へと急ぎました。
予感は的中!!
あるあるっ。和食に洋食・・・選びたい放題で3つの食事処を発見しました。
どこもボリューム満点でリーズナブル。庶民にはありがたやありがたや。
スケッチの3つを全部食べたわけではありませんが、とにかくなかなかGood!!でした。
まさかね、お腹を満たす食事処で病院にお世話になるとは! これも楽しい経験です。
さぁ、お腹がいっぱいになったところで、もう少し今日の旅を続けるとしましょう。
「東海大学附属病院」から二股コースの折返しルート(新東名高速道路側)の方へまわっていくと、またもや鬱蒼とした木立の高台がもうひとつ現れます。
長い階段が迎えてくれるのが「粟窪神社」。
祭神が粟窪大神と建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。創建は1251年(宝治6)と伝えられ、1560年(永禄3)足利義営が再興したのだそうです。この神社の話をすると凄く長くなるので割愛しますが、粟窪(地域名)と共になかなか奥の深い歴史を持つようです。
そして丘陵を下り新東名高速道路橋脚下に出ると、二股の所に「道標」があります。
工事中のコーンが並ぶ道の脇で、ブロック塀に囲まれている上、低木が茂って見つけにくいのですが、味気ないブロック囲いもしっかり「道標」を守ってくれているので良し!ですね。
ここで、実際に現地を歩いていたときには凄まじいスコールに見舞われました!
そこで役に立ったのが、新東名高速道。横殴りの大雨でしたけれど、この橋脚の下で無事に雨宿りができました。
最近の日本はなにやら亜熱帯地方のようですからね。朝の天気予報で傘は持っていましたが、ほぼ役に立たないほどの横殴り大雨だったのです!から、これまたありがたやです。
無事にスコールをかわしたその橋脚を越えると、「大山不動尊の道標」 立派な不動明王座像がのかった道標です。
説明板によると 正面には“左 大山道”、向かって左側面には“右 厚木道”右側面には“此方 飯山 八王子道”と彫られています。
この道は、明治末頃に現在の小金塚方面への道が造成されるまで江戸赤坂見附から来る大山道と八王子道の交差する所でした。〜中略〜ここは大山参詣者、飯山観音、八王子、厚木方面へ向かう人達で賑わったことでしょう。と、あります。
現在では空を覆う大きな橋脚に辺りの風景も様変わりしてしまいましたが、この解説板を読みながら当時を想像すると、旅姿の人たちが行き交っているのが見えてきます。先日某番組にて東海道五十七次を紹介していましたが、現代のまちを江戸時代に戻っての画像がなかなか面白かったです。みなさんも街道歩きの楽しみのひとつとして、想像力を充分に働かせてくださいね。
いよいよ本日の行程も終わりが近づいてきました。
先ほどの橋脚下からほぼ平行に道を辿っていくのですが、途中なんてことはない曲がりくねった旧道に出くわしたり、辺り一面の田んぼが広がる大らかな景色を楽しむことになります。
高いビルもなく、とにかく頭上の空が広くて気持がいいものです。先ほどのスコールも忘れてのんびり、コース終盤を味わいました。
「八丈橋」で再び歌川を渡り住宅街を進むと曲がり角に庚申塔や道祖神などの石仏が並んでいます。
やはり説明板があり、先ほどと同じように明治から大正にかけての造成の話が出てきますが、こちらは、今回のコース初めに探していた旧道があったけれど道の造成で人の流れが変わってしまったとあります。
つまり、その後どんどん近代の家々が建ち旧道がなくなったように、今回の二股ルートは往路の南側に人が流れて行ったということなのでしょうね。
「東海大学附属病院」の先に次回の出発点「咳止地蔵」があります。そこへ到達する二股の道をぐるりと一周したわけですが、やはりまちの風景そのものを見ても、古い時代に反映した香りが残る所と全く現代の新興住宅地となった風景との違いがはっきりする旅でした。
最後に「寿経寺」へ寄りましょう。
長い参道の横には、たくさんの庚申塔や石仏、六地蔵が並んでいます。
このままR246を進み「愛甲石田駅」へ戻りますが、その手前にある日本ロジテムのビル横から上がり脇を通る旧道(割地坂)を通りました。高台になっているので当時は眺めも良かったでしょう。
なんとなく旧道っぽい雰囲気を少し味わいながら、今回の旅はおしまい。
次回スケッチ紀行は15日目。
「咳止地蔵」から石倉橋バス停を経由して・・・大山の麓まで行かれるかな?!
どうぞお楽しみに!
みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。
岡本和泉/Izumi Okamoto
さまざまな「デザイン」を通して、社会や地域、環境、食、観光、ものづくり、文化などをつなぎ 新たな展開をするプロデューサー&クリエイター。 2015年からは”暮らしのデザイン”の一部として、地域に密着し日々の楽しさを広げる 地域独自のイベントや企画、地域活動も手掛け、長年住む世田谷の文化や知的資源、 自然を活かした地域ツーリズムなども多く開催している。
http://www.imincosmos.com https://www.facebook.com/Setayui/
2022年8月、新たに合同会社Produce any Colour TaIZを設立。従来の企画デザインやプロデュース業などに加え、画像技術による画像処理分野に手を広げ、文化財や古い写真の修復・保存、天文写真再現、画像技術開発、講座なども展開する。
https://taiz.jp
【以下の書籍とマップで歩いて描いています】
中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)