大山のお膝元、伊勢原が迫ってきました!

みなさん、こんにちは。
いったいいつまで続くのか、この酷暑、朝晩はいくらか涼しい風が吹き、虫の声も聞こえるのですが・・・・。
しばしお休みしておりましたが、大山街道スケッチ紀行ブログ、本日はNo.23。
今回は前回の「本厚木駅」から「愛甲石田駅」までのルートです。
距離もありますが、寺や神社がたくさんあり、前回に引き続き見どころ満載ですので、頑張っていきましょう。

*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。

*ウォークマップ大山街道/本厚木駅ー法安寺ー最勝寺ー熊野神社ー智音寺(智音神社)ー旧平塚街道の碑ー岡田一本杉バス停ー三嶋神社ー永昌寺ー岡田の渡しー長徳寺ー宝徳寺ー岡田用水堀ー石造物のある三差路ー酒井寅薬師ー法雲寺ー新宿橋ー道祖神ー稲荷社ー玉川橋ー庚申塔道標ー大厳寺ー円光寺ー笠塔婆型庚申塔ー愛甲石田駅
*立ち寄りポイントには記載していませんが、石造物や地蔵、五輪塔などもたくさんあります

たくさんの寺や神社、庚申塔、道祖神、石造物にあえる道

「本厚木駅」を降りて前回のルート・大山道まで行きます。少し戻るようになりますが、鮎煎餅の三河屋を過ぎてから一つ目を左へ入ると「法安寺」があります。
玉隠英墺大和尚( 勅謚宗献大光禅師) が開山し、1649年(慶安2)には幕府より地蔵堂領3石5斗の御朱印状を受領したといいます。大山詣で栄えた豪商などの檀家が多い寺でもありました。当寺の賑わい振りが想像できます。

そのまま大山道へ出て進むと、続いて「最勝寺」
創建年代は不詳ですが、小田原北条と上杉輝虎(謙信)との攻防に際し焼き払われたりしたものの1574年(天正2)に開山されたそうです。当寺の本尊釈迦像は上杉謙信の守護仏と伝えられています。

その次に見えてくるのが「熊野神社」
古くから厚木村の総鎮守社であったと伝えられ、熊野信仰の拠点となっていたそうです。かつての境内は相当広く<熊野の森>といわれていました。
渡辺崋山「厚木六勝」図のひとつ「熊林曉鵜(ゆうりんぎょうあ)」は、この森を描いたものです。
目立つ大銀杏は樹齢約450年、天を仰ぐ勇壮さが印象深いですね。
近くにお墓があるのですが、どなたのものか詳細はわかりません。

そして旧道との分かれ道を右へ入ると、その先に「知音寺」があります。
真言宗の古刹ですが、神仏分離令によって廃寺となり神式葬祭場と改称し、現在は知音神社の幟がかかげられています。境内の鬼子母神堂は1922年(大正11)頃に移されてきたそうです。

二股の左側・旧道を進みます。
ここらあたりから、右手に大山を旅の相棒にしながら歩くことになります。

その旧道に入ってすぐ、馬頭観音・道祖神題目碑がありますが細かな文字は読み取れません。
先へ進むと、大きな建物が見えてきます。これがソニーテクノロジーセンター
旭町交差点付近にはきりんど橋。今は埋め立てられて川は残っていませんが、堤に桐が植えられたことから「桐辺橋」とよばれていましたし、現在も側道は川の面影があります。
渡辺崋山「厚木六勝」図の「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」は、桐辺の堤の月景色が美しい様を描いたものです。
向かい側のソニーテクノロジーセンター厚生施設脇に「旧平塚街道碑」があるのですが、ちょっとわかりにくいので要注意です。実際に私は何度か行き来して見つけました。
「平塚街道」とは秦野から平塚を結ぶ道で、現在は県道62号として堀山下から平塚の花水橋までをいいます。

合間合間に大山の姿を見ながらしばらく道なりに歩きます。運動施設や丸眼の奇妙な建物などをやり過ごしますが、なんとなくのどかな雰囲気です。
民家も多いので、この辺りの人々は朝夕大山の姿を見ながら日々の暮らしが営まれるのですね。
ちょっと余談。私の家の近くには昔<百眼の家>という、まさにこんな丸眼が百個付いている家が急な坂の上に建っていました。そのせいでこの急坂の俗称が<百眼坂>、多くの映画やTVドラマのロケーションにもなり、この建物を見たらそんなことを思い出しました。

グラウンドを過ぎた頃に黄金色の小さな鳥居が見え、御嶽神社祠とあります。
その傍が「岡田一本杉バス停」。以前は目印の一本杉があったのではないでしょうか?!
しばし一昔前のまち風景が続く感じで、家々の様子や庭木を見ながらゆったりと歩きましょう。

そして東名高速が近づいてくると、「三嶋神社」の通用口に着きます。正面の鳥居は次の十字路から左へと入ります。
「三嶋神社」の在る場所は、毛利季光屋敷跡の一画だと伝えられています。季光は源頼朝に招かれた政所の別当に任じられた大江広元の四男。広元の所領の内、毛利荘を相続して毛利を名乗りました。
1247年(宝治元年)、北条時頼と三浦泰村が戦った宝治合戦で三浦一族とともに自刃しますが、季光の四男経光が生き残り、その子孫があの毛利元就を生んだのだそうです!
歴史とは、本当に面白いですよねぇ。

「三嶋神社」のあたりは「岡田宿」があり、東名高速の下を相模川の方へ行くと「岡田の渡し」です。
「岡田宿」は1569年(永禄12)武田信玄が小田原へ向かったときに陣を置いたと言われており、当時の寺々が今なお残っています。
鳥居に向かう十字路脇には矢倉沢往還の碑が立っています。

では、その当時から残る寺へ回ってみましょう。
東名高速の下を「岡田の渡し」とは逆方向へ行くと先ず「永昌寺」です。
鰻観音とも呼ばれているようで、相模川の洪水時に濁流を逃れて集まった鰻を、水神の使いとして崇めたといいます。

東名高速を抜けていくと「長徳寺」

山門の向こう側に厚木のランドマーク「厚木アクスト」がそびえ、時代のズレとは言え二つの共存がなかなかユニークです。
山門をくぐると美しい日本庭園が広がり、ひととき心を落ち着かせるやすらぎが得られます。
四季折々の花々に築山、池には立派な鯉たちがゆったりと泳ぎます。歩き疲れた体を癒すにはもってこいですね。

さらに同じ街道筋に「法徳寺」。次から次へと寺があり、名前も似ているので覚えるのが大変です。
開山500年の歴史があります。開基は教信坊で、栃木より聖徳太子像を背負って、この地に念仏の道場を建立したと伝えられ、その像は現在もなお、寺宝として大切に受け継がれているとのこと。

さぁ、少し疲れてきました。
ここら辺りには、トイレ休憩できるコンビニもないですし、普通に店がありません。
お腹もちょこっと空いてきたしなぁと思っていたら、あるじゃないですか!!良いお店が。
と、道中見つけたのが創作和菓子きらく山口屋

和菓子屋とありますが、創作和菓子で洋菓子風なモノもあり季節に応じていろいろなアイテムを作っているのだとか。おまけにちょうどイートインもあるのです!!
これは抜群ですね、トイレ休憩も兼ねて早速中へ。

バリエーションがありすぎて迷うのですが、ここは私の大好物<すあま>で勝負!
なんとも柔らかく、それでもネットリ・コシのあるお餅に上品な甘さで、とてもおいしくいただきました。同行の相棒が選んだのはパイナップル大福。これもなかなかの美味だったようですよ。
さぁ、これで元気回復!またひと踏ん張りできます。

再び歩く力を得て元気に出発。
際に双体の道祖神が祀られている「岡田用水堀」を渡り、石造物が目印のT字路まで行きます。
古びた石造物が並んでいますが、くずれかけてもいます。コレを目印に右折し平塚街道とはお別れ。

三差路から一本目の道を左に入ると「酒井寅薬師」です。
相模川の洪水で悪病が流行ったとき、行脚中の恵心僧都が流木に薬師像を彫って悪病退散を祈願したところ村民が救われたといいます。
脇には道標がありますが、残念ながら文字は読めません。

そして「酒井寅薬師」に並ぶようにあるのが「法雲寺」です。
浄土宗の寺で山角次郎右衛門勝長らが寺地を寄進して開基となり、法阿雲冏が開山したとされています。

いよいよ愛甲厚宿へ

ここで玉川を渡ります。

目の前には大山と周辺の丹沢山系がのびのびとその姿を貫いています。
玉川「新宿橋」を渡ると直ぐ立派な祠に守られた「道祖神とほか石造物」があります。

今回のルートは本当にこういった石造物が多いのですが、それはやはり村の堺や道の方向など当時の人々が暮らしに役立たせ、安全を祈って祀ったということでしょう。
現在の地名(住所)が○○市のあとが変われば、次の村があったということですから、当然そういった結界には道祖神庚申塔があります。

今は普通に民家や生活道路、標識もありますが、昔は一つの村でも田畑や山林が多いですし夜間は真っ暗でしょうから、こういう石造物はありがたいだけでなく旅人の道案内にも欠かせないものであったでしょう。
こうやって多くの石造物を見ていくと、当時の周辺の様子や暮らしを想像できるのが街道旅のおもしろさのひとつでもあります。

ここからはまた、さまざまな石造物に出会います。
赤いよだれかけを掛けた地蔵さんを過ぎて程なく、小さな鳥居が見え、奥には「稲荷社」です。
そして雨を凌ぐ小さな祠に五輪塔、その先にもまた地蔵さんと・・・多いです。間に民家の塀伝いに地蔵さんがもうお一方いました!
でも、こういう地蔵さんは必ずどなたかがよだれかけを時々新調しているのですよ。この先も長く、そういう風習が守られるといいですね。

この先、片平の交差点で小田原厚木道路を越えて「玉川橋」を渡るまでは、しばらく長い道が続きます。
車でよく通る交差点なのですが、改めて「あぁ!ここか」と気づきました。
この道がちょっと長く、なにも特徴たるものが無いのですが、「愛甲石田駅」まではもう一息です!

橋の手前の大山道標を見て、「玉川橋」を渡りましょう。
現在は暗渠になっていて、川は見えませんが遊歩道のような雰囲気で両側には民家が並びます。

「玉川橋」の突き当たりには「庚申塔道標」が並んでいます。
享保元年の銘、左に「大山道」、右に「あつぎ、江戸青山」とあります。ここから江戸はまだかなり遠いですけれどね。
消火栓の赤い箱も、同じように並んでいるのがなんだかおかしかったです!

左に曲がると高台に「大厳寺」「円光寺」の二つの寺が並んでいます。
先ずは「大厳寺」。かなりの傾斜を上っていきますが、上るだけの価値は大いにあり!
男坂と女坂のように急斜面と多少緩やかな斜面の二つがあります。疲れたカラダにはどちらも急に見えますが、力を振り絞っていきます。
いわゆる女坂の正面には赤いよだれかけの六地蔵が待ってくれています。

上がれば厚木市方面が一望できて、わぁ〜!ここでしばしの休憩。

「大厳寺」は曹洞宗寺院で、1593年(文禄元年)七沢広沢寺四世玄堯和尚が開山、当初は片平にあったそうですが、宝暦年間(1751~1764)に当地へ移転したのだそうです。

続くお隣の「円光寺」
地続きなのでそのまま行かれそうなのですが、行かれない。また大山街道まで降りてから再び上がることになります。

「円光寺」は鎌倉建長寺の末寺で、鎌倉時代に弓の名手だった愛甲三郎季隆の墓と伝えられる宝篋印塔があります。ここからも同じく眺望がよく、この地に愛甲城があったという説も伝られているそうです。
また、あの織田無道氏が住職なのだとか!!!へぇ〜っ!お目にはかかれませんでしたが・・・。

さて、流石に足もクタクタ。
604号の交差点まで行けば、「愛甲石田駅」も直ぐです。

この交差点にあるのは笠付きの庚申塔「笠塔婆型庚申塔」。相当古いのですが、右大山道と彫られています。

そこを右折して二股の道標がある道へと進みましょう。
ここが「愛甲石田駅」への入口。
緩やかな坂道を抜けると本日の終着点「愛甲石田駅」に着きます。
そのはす向かいにある幸月堂は、ひとつひとつ手づくりの丁寧な仕上げでたくさん地元ならではのお菓子を作っています。

先ほどご紹介した弓の名手愛甲三郎を名付けた饅頭や、季節毎に味が変わるどら焼きなど、こちらもなかなかな品揃えです。
但し、お昼の時間はとっくに過ぎ、ちゃんとランチをしたいのでお土産の持ち帰りで購入することにしました。

そして、こちら側にはめぼしい店が見つからなかったので、R246側へと移動して、腹ぺこを埋めるべくランチの店を探しました。そうでないと今回が終わりません!!

と、見つけたのが・・・レトロな雰囲気抜群 昔ながらの食堂で、その名も花屋食堂
暖簾の横にはこれまた古びた食品サンプルのウィンドウがあるじゃないですか!
こういう所が意外においしかったりするんじゃないの?!と、勢いよくガラガラっと開けてみました。白い割烹着姿のおばちゃんが二人、ホール担当で忙しく動き回り、厨房ではおじちゃんがひとり奮闘しています。実は入ろうとしたとき、ある外国人の男性が「ここ、凄く美味しいよ!」と声がけしてくれました。うん、やっぱり?!お昼の時間はとうに過ぎていましたが、結構な数のお客さん。メニューもたくさんでしたが、迷わず鰺フライ定食にビール!!いや、これ絶対です。

結果は、スケッチにある通り!!!
いやぁ、予想通り最高のランチを頂きました!!!また、ぜひ来たいっ。
花屋食堂のあったかさが、美味しさに増して本当に嬉しいランチタイムでした。

というところで、今回の旅はおしまい。満腹の後、無事に「愛甲石田駅」から帰りました。

次回スケッチ紀行は13日目。
「愛甲石田駅」から伊勢原市の二つのルートを制覇して、「石倉橋バス停」までという、これまた長丁場です。どうぞ お楽しみに!
みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。

【以下の書籍とマップで歩いて描いています】
中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: ooyamacv-108x150.jpg
ウォークマップ ホントに歩く大山街道
キャーッ! 大山街道!!