先日、中山道の新町宿をブラブラ散策してきました。 新町宿は、江戸寄りの笛木新町と高崎寄りの落合新町とからなるそうです。両町は、慶安4(1651)年に伝馬役を命ぜられたそうですが、笛木新町の場合は、街並みを整備するのに時間がかかって、承応2(1653)年から、伝馬役を務めるようになったそうです。
天保14(1843)年の書上帳によると、本陣は、小林甚左衛門家(建坪は、凡135坪:約446.31㎡)で、門構と玄関付き、並びに久保五左衛門家(建坪は、凡42坪:約138.85㎡)の玄関のみの2軒、脇本陣は、三俣武兵衛家で、建坪は、凡126坪:約416.56㎡でやはり玄関のみ、いずれも落合新町にあったそうです。江戸方面から歩いて行くと、向かって右側に小林家、左側に久保家、三俣家の跡地がありました。 問屋場は、笛木新町・落合新町それぞれにあり、笛木新町の問屋役は、内田源左衛門、千木良武太夫、三俣七郎衛門らが、落合新町の問屋役は、富沢忠右衛門、高橋重太夫が務めていたそうです。両町は、毎月15日交替で問屋役を務め、非番の問屋が民間の荷物を担当したそうです。落合新町の問屋場が、久保家の向かいにあったのは分かったのですが、笛木新町の問屋場の位置は、よくわかりませんでした。
人馬継ぎ立てについてですが、次宿倉賀野までの距離は1里半、正徳元(1711)年の段階で、荷物一駄・乗掛荷人共60文、軽尻馬一疋40文、人足一人30文です。さらに、『大概帳』が成立した天保14年の段階では、荷物一駄・乗掛荷人共87文、軽尻馬一疋58文、人足一人44文とのこと。現在の貨幣価値に換算できれば、料金のイメージがつかめるのですが、不勉強なため、私には、高いのか?安いのか?見当がつきません。笛木新町と落合新町のちょうど境界に当たるところに、高札場の説明板があるのですが、賃銭についての記述はありませんでした。駄賃札を復元しろとまでは言いませんが、せめて、説明文の中で駄賃に触れて頂けたらと思いました。
助郷は、享保9(1724)年の段階で22ヶ村、嘉永5年(1852)の段階で32ヶ村が指定されていたそうです。 最後に、六斎市なのですが、新町宿の場合、成立当初は、3・8の日に定期市が立っていたそうですが、いつのころからか、この市は消滅して、毎年12月の23日と28日のみ、小規模な市が立つだけになったそうです。『分間延絵図』を見てみると、薬師堂の入口のところに、市神が描かれているので、桶川宿や本庄宿のように、周辺の神社に小祠が合祀されていれば良いなと思っていろいろ探してみたのですが、見つけることはできませんでした。
PS そういえば、『ホントに歩く中山道』の第14集が発行されたんですよね。第14集を入手したら、今度は、そのマップを片手に、新町宿を再び歩いてみたいと思います。
みちがたり 22.11.10
(FuOH)すごくお詳しいですね! 新町に特にご関心がおありなのでしょうか? 弊社の取材、学習では、こんなに詳細にはできていません。今後とも、いろいろご教示賜りたく、お願い申し上げます。また、みちがたりさんのお便りが、読者の方にも参考資料になれば、ありがたいと思います。ちょうど発行した『ホントに歩く中山道』の第14集の宿場で、タイムリーでした。どうもありがとうございました。
ぜひ、第14集で新町宿を歩いてみてください。