どこにいる家康 ロゴ画像

大坂夏の陣は徳川の勝利に終わり、豊臣秀頼と茶々が自刃。泰平の江戸時代が始まった。
家康自身も年を取り、死ぬ。家康の一生としては、弱いウサギから恐ろしい狸になった。
南光坊天海を中心に、「神の君」としての家康の伝記が作られた。
臨終間際の家康の妄想として、「鯉の話」の内容がわかった。
2023年の番組で2年がかりになったが、「どこにいる家康」も終了いたします。お読みくださり、ありがとうございました。
五街道をつくった家康。東海道や中山道にまつわる史跡や伝承が多くあることを改めて感じました。街道歩きがさらに楽しくなりそうです。

舞台は、大阪市、京都市、静岡市。

もくじ
●第48回「どこにいる家康」動静 ▼紀行 日光東照宮

●第48回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第48回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.大坂の陣終了――外国人はどのように見ていたか
  2.豊臣秀頼生存説
  3.「ゆる絵」の三代将軍家光と春日局

第48回「神の君へ」▼動静

00分 大坂の陣の回想
 天守が崩れて千姫をかばった茶々が生きている。

00分 家康の若い頃からの回想

01分 京都・二条城(中京区二条通堀川西入二条城町541)
慶長20(1615)年4月、「大坂夏の陣」が勃発。
家康は、大坂へ自ら向かうため、阿茶に着替えを手伝ってもらう。
阿茶に「何か最後に聞いておきたいことはないのか?」と家康が問うと、「鯉の話が聞きたい」と答える。

03分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
後藤又兵衛や長宗我部元親など、大坂夏の陣による多くの豊臣側の武将の死報が届く。
<真田信繁の回想>父昌幸と碁を打っているとき、昌幸はにズルをして、戦とはこういうものだと諭す。「信繁、乱世を取り戻せ」

大野治長「家康が自ら戦場に来るらしい」
豊臣秀頼「この戦に勝つには、家康の首を取るしかない」
茶々「恐れるな。この母は、どこまでもそなたらと一緒だ」
一同「オー(雄叫び)」
千姫「私も一緒じゃ」

05分 大坂城天王寺口・徳川本陣(大阪市天王寺区四天王寺)
家康が大坂城に到着。家康は、自分が来たことを示すため、敵から金扇(馬印。戦闘中の指揮官の位置を示す)が見えるように前に出させる。

06分 大坂城付近・戦場
大野「あの金扇を目がけて、一気に駆け上がれ」
真田信繁らが家康の本陣に攻め上がっていくと、なぜか家康が一人残されていて、「共に行こうぞ」と叫び、素手で戦いだす。次の場面で、襲ってきた信繁は死んでいる。
※真田信繁は、四天王寺近くの安居神社で休息中のところ、松平勢に討ち取られたとされる。

大野が戦場に着くと、多くの豊臣兵が倒れているのを見る。信繁の六文銭を拾い、信繁の死を知る。

10分 大坂城天王寺口・徳川本陣(大阪市天王寺区四天王寺)
大坂城の天守が燃えている。
本多正純「秀頼様たちは山里曲輪に逃げた。大野修理が、千姫をお返ししたいと申し入れてきた」と家康に報告。

10分 大坂城・山里曲輪(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々「お千、輿を用意してある。出よ」
千姫「私は殿と母上とともにおります。殿も一緒に出ましょう」
秀頼「お千、余は最後まで、豊臣秀頼でありたい」

※山里曲輪は、天守の北、刻印石広場のあたり

大坂城刻印広場 「広」の字の下あたりに自刃碑がある
大坂城刻印広場 「広」の字の下あたりに自刃碑がある『ホントに歩く東海道』第17集№68mapA
大坂城刻印広場
大坂城刻印広場
大坂城刻印広場 前田家家臣の相印
大坂城刻印広場 前田家家臣の相印

14分 大坂城天王寺口・徳川本陣(大阪市天王寺区四天王寺) 
千姫が家康のもとに連れられてくる。
千姫は土下座して、「大御所様、我が夫と母をご助命ください。今の豊臣には戦う力はありません。殺す必要がどこにありましょう」
秀忠「戦とはそういう……」
千姫「大御所様に申し上げております」と、父秀忠の発言を遮る。
家康「秀頼を慕っているのだな」
千姫「私だけではありません。多くの者が慕っています。前途ある若き才をお救いください」
家康「すまぬ。それでは今までやってきたことが……」
秀忠「将軍として命を下す。秀頼に死を申しつける」
千姫「鬼じゃ。父上もおじじ様も豊臣の天下を盗み取った化け物じゃ!」
「これは、姉と秀頼様が選んだことでもあるのです」
泣き叫びながら千姫は連れて行かれる。
家康は大坂城に向かって合掌する。

19分 大坂城・山里曲輪(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
燃える天守の中で秀頼が切腹。
秀頼「母上、我が首を持って生きてください」
大野が介錯する。
返り血を浴び、茶々は「見事であった」と秀頼をねぎらう。
口々に「お伴いたします」と、家臣がみな切腹。大野どんどん介錯。
大野「徳川は汚名を残し、徳川は人々の心に生き続ける」と言って切腹。茶々が短刀でトドメを刺す。
茶々は「茶々はようやりました」と言って首に短刀を当て、自害。
※女性は切腹ではなく、首を切って自害するんですね。

大坂城 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑
大坂城 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑

25分 大坂城天王寺口・徳川本陣(大阪市天王寺区四天王寺)
合掌している家康。
<ナレーション>かくして、戦を終わらせ、安寧の世が現れたのでございます。全ては神の君のおかげ。

26分 大坂のどこか?
引間城(浜松城)近くの団子屋のばあさん(柴田理恵さん)が現れ、食い逃げしようとした家康を追いかけた武勇伝を披露。

<ナレーション>我らは有象無象の声に惑わされず、正しき君の声を伝えていかなくてはなりません。

26分 寺?
南光坊天海を中心に、家康の伝記を編纂している場面。
天海「(家康のことを)恐ろしいタヌキと想像する輩も多い。(「吾妻鏡」や「源氏物語」をの本を手に取りながら)源頼朝も、実のところどんなやつかわかっていない。周りがしかと語り継いできたからこそ、今日、全ての武将の憬れとなっている」
秀忠「だが、人はみな過ちを犯すもの……」
天海「(大御所様は)人ではありません。大権現!」

▼29分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
春日局が竹千代(徳川家光)に説教をしている。
春日局「全ては神の君が作ったもの。未来永劫、徳川の世を守ってゆかねばならぬ。若君ならできます、偉大なる神の君の血が流れているのですから。しかと聞いておられましたか、竹千代?」
竹千代「神の話なんか聞きたくない」と狸の絵を描いた。
阿茶(すごく老けている)「わざわざ江戸よりお見舞いに来ていただいたのに申し訳ない」と家康に会えないことを春日局に詫びる。
本多正信も歩けなくなっている。

31分 駿河・駿府城 家康の部屋
正信たちが訪ねていくと、家康が寝ている。
本多正信「わしのような者を信用してくれて感謝します」と手を握ると、握り返す家康(家康の手は別人のようなしわしわの手)。
阿茶「大御所様は、人に恐れられる者になってしまい、幸せだったのか」

34分 天和2(1616)年4月17日 駿河・駿府城 家康の部屋
家康が木彫りのイノシシを彫っている。あの世とこの世の境みたいな設定らしく、瀬名と信康が寝室の佛壇?から出てきて、家康のこれまでのことをねぎらう。
竹千代(家光)が訪ねて来て、兎の絵を置いていく。

39分 岡崎城?
家康が若い頃にタイムスリップ。「池の鯉事件」の顛末を「どうする家康」の主な登場人物全員集合で演じる。
信長が、信康と信長の娘五徳の祝言にと贈られた鯉がいなくなったと、大騒ぎする話。
心優しい家康で終わるエンディングで、家臣みんなから感謝を述べられ、「わしは幸せ者じゃ」と死んでいく。
最後、城からは東京タワーが見えた。「家康がつくった江戸」のイメージか。

潤礼紀行47 日光東照宮(日光市)

「東照社縁起」(日光東照宮蔵)は、家康の死後、天海の草案を元に作られた。
家康の生涯を綴った絵巻物。150年の乱世の終わりを見届けたかのように、75年の生涯に幕を引いた。
死期を悟った家康は、枕元に側近を呼び寄せ、遺言を伝えた。
「遺体は久能山に収め、1周忌が過ぎたら日光産に移すべし」
家康の御霊は東照大権現として日光に祀られ、三代家光の手により、現在の墓に作り替えられた。

日光東照宮(栃木県日光市山内2301)

●国宝 東回廊の眠り猫
●国宝唐門、御末社(奥宮)
●国宝 陽明門
彫刻は家康の平和への思いや政治思想が描かれている。「司馬温公の瓶割り」は、何よりも大事なのは命。子どもが安心して遊べる世を願った。
●奥宮・御宝塔 家康の墓

家康の辞世の句
「嬉しやと 二度(ふたたび)さめて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
ドラマの主題曲「どうする家康メインテーマ~暁の空~」は、この句からとられたんですね。

第48回「どうする家康」の舞台関連マップ


どこにいる家康48「神の君へ」発展編(by(し)

いよいよ最終回、徳川家康75歳。後期高齢者家康を傍らで支えるのは、今も阿茶局である。2000年大河ドラマ「葵德川三代」の福々しい阿茶局も良かったけれど、今回のクールビューティな(もう還暦過ぎのはずだけれど)阿茶も素敵だった。なので、「天下は取ったけれどお幸せだったのか?」という彼女の述懐は、切れ者の秘書官にしてはやや陳腐な印象を受ける。「天下人の孤独」を言いたかったのかもしれないが、この時期の家康の周囲には、若い側室たちや、義直・頼宣・頼房ら晩年の子供達がいたはずで、尾紀水ご三家の祖が完全スルーだったのは納得がいかなかった。

その代わり、突然登場した天海和尚による「東照大権現イメージ戦略」、なぜかしれっと参加している小松姫たちと、「好都合な逸話」の選別と編集に邁進する様子はおおいに笑えた。第11回の「系図捏造」――大樹寺の登誉上人を抱き込み、松平家のルーツに無理やり新田源氏のルーツを組み込んでいたシーンともつながる。浜松の銭取餅婆の再登場(百歳越え? なぜ江戸にいる?)も、軍事力に代わるイメージ戦略の重要さを折に触れて強調してきた今作ならではのサプライズだったかもしれない。

1.大坂の陣終了――外国人はどのように見ていたか

『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018)は、2017年10月に開催された一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」に、後日おこなわれた座談会を加えて編集され、「ふつうの人びとは白村江の戦い・応仁の乱・幕末禁門の変などの戦いをどのように生き延びてきたのか」という考察を通して、必ずしも戦いの被害者・弱者だけではない民衆の姿を明らかにしている。この中で大坂の陣については、フレデリック・クレインス氏(『ウイリアム・アダムズ――家康に愛された男三浦按針』の著者、第41回参照)が「オランダ人が見た大坂の陣」を書いている。日本人が知る武将の武勇伝中心の史料とは全く違った視点から見た大坂の陣とは・・・。

1609年に長崎平戸に商館を設立したオランダ人は、大坂の陣前後の時期はまだ、日本国内を自由に行き来できていたので、破壊された大坂を実際に目にしていたし、取引先から情報も得ていた。重要な商品であった毛織物の販売管理のため、商館員が関西各地の取引先の商人の家を出張所のようにしており、商人たちは商品を抱えて京都に避難した。商館員たちが長崎の商館長にあてた報告書(ハーグ国立図書館に保管)の中にも大阪の陣による混乱について記されているという。オランダ人は、徳川軍に武器供給を行っていたという理由もあるが、豊臣の牢人たちが乱した秩序を徳川が取り戻したとして家康を評価しているのに対し、イエズス会の会士たちが本国のイエズス会本部に送った報告書では、秀頼が正当な「王子」であったのに簒奪したという「家康悪人イメージ」が強いというのも興味深い。

ドラマでは描かれない大阪落城後の徳川軍による「乱取り」が、イエズス会士たちにアントワープ大虐殺(大坂の陣の40年前、1576年に、ベルギー北部に駐屯していたスペインの占領軍がアントワープで3日間にわたる大略奪・市民の虐殺を行ったもの)を連想させたというのも、なかなか日本人には思いつかない視点だ。

2.豊臣秀頼生存説

「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退(の)きも退いたり薩摩まで」(または「加護島へ」)というわらべ唄の伝承があり、平戸の英国商館長リチャード・コックスも「秀頼薩摩逃亡説」を記録していると、先述の『戦乱と民衆』収載の座談会でも語られている。南九州市頴娃(えい)町の雪丸という地区には、真田幸村(信繁)の墓と伝わる宝篋印塔がある。幸村は、しばらく秀頼と共に薩摩に潜伏した後、秀頼と別れてこの地に移り住んだと伝えられ、「雪丸」という地名も、「幸村」から来たものではないかと言われているらしい。
https://www.city.minamikyushu.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaika/bunkazai/4/1/7207.html

『真田手毬唄』(米村圭伍、新潮文庫2008)は、この秀頼・真田生存説をもとに真田十勇士や太閤隠し金も絡み、十一代家斉や松平定信など「大河べらぼう」の時代までも続く奇想天外な小説だが、真田が秀頼を連れていったのは鹿児島と見せかけて、実は伊達政宗の領国仙台だとしている。鹿児島のわらべ唄も世間の目をごまかすために真田がわざと流行らせたもので、仙台藩の国境近くに隠し砦を作って秀頼を匿ったというのである。

もっとも、大坂の陣以後の伊達家・真田家の縁というのは史実であり、真田幸村の長男は父と共に討死するが、次男以下の子供たちは、伊達家の重臣、片倉小十郎重長が庇護し、さらに幸村の娘は、重長の正室が病死した後に継室となった。幸村の次男は仙台藩士となって仙台真田家を興し、現在まで続いているという。現在NHKBSで再放送中の「独眼竜政宗」では、片倉小十郎景綱・重長父子を西郷輝彦・高嶋政宏が演じており、このエピソードも後半にちらっとだけだが出てくる。

さらには、秀頼の幼い息子で、処刑されたはずの国松(第47回参照)も、秀頼や真田幸村と同様に生存していたという説がある。大分県、国東半島の南端部で別府・湯布院などの観光地から車で30分ほどの所にある日出(ひじ)という土地に、国松が逃れてきたという言い伝えがある。
https://hijinavi.com/hiji/hiji-han-kinoshita

この地にあった日出藩の藩祖は、豊臣秀吉の正室北政所の甥、木下延俊。木下延俊は小早川秀秋の実兄でもあり、関ヶ原の戦では東軍で功績を上げ、家康から豊後日出3万石に封じられた。延俊には俊治・延由の二人の息子がいたが、父の延俊の遺言により、俊治が二代藩主となるにあたって弟の延由に立石領五千石が分領された。立石領は日出藩とともに明治維新まで存続するが、もともと三万石しかない小藩でこのような分領が行われた理由として、木下延由が実は豊臣秀頼の遺児国松であり、密かに木下延俊の次男としてこの地に匿われたという説がある。真偽は今も定かでないが、日出若宮八幡神社に日出藩主が奉納した鳥居や石灯籠には「木下」でなく「豊臣」の姓が刻まれており、徳川の傘下に入ってはいるが豊臣の一族であるという思いが、代々の藩主に受け継がれていたのは確かなようである。

3.「ゆる絵」の三代将軍家光と春日局

子供時代の家光が登場して絵を描いていたが、「ぺんすう」にハマった家康が、「絵を描くのが好きなお千」にプレゼントしようとするなど、お絵かき好きのDNAは德川家代々に伝わっているようだ。もっとも、歴代将軍始め大名たちが自ら筆をとって絵を描くことは珍しくなく、中には本職勝りの腕を誇る大名画家も各地に存在したようだが、そうした中ちょっと趣の異なる「画伯・家光」が今、大きな評判を呼んでいるという。きっかけとなったのは、2019春に開催された府中市美術館「へそまがり日本美術」展。伊藤若冲や長沢蘆雪と共に展示された、徳川家光の「兎図」「木兎図」「鳳凰図」などの作品が、「ゆるい」「かわいい」「ヘタウマ」と評判を呼んだのだ。この展覧会直前に、家光・家綱の未公開作品が発見されたニュースも注目を集めた。
https://news.kodansha.co.jp/books/7556

府中市美術館の金子信久氏によれば、家光の絵は水墨画の常識を無視した描法であるが、「家光リアリズムとも呼ぶべき孤高のスタイルが確立されている」という。その背景には、常識的な物差しを疑う禅の思想があるのではとも指摘されている。家光の嫡男、四代将軍家綱もまた、父の絵と同じく、上手・下手を超越した味わい深さをたたえた絵を描いており、とくにニワトリを好んで多数の絵を遺しているそうだ。

最終回に満を持して登場した、家光の乳母「春日局」は、ナレーション(しばしば史実を超越した「春日局史観」を展開していた)の寺島しのぶさんで、おおかたの視聴者の予想通りであった。春日局の墓は、東京都文京区湯島四丁目、湯島天神と東京大学に挟まれた、その名も「春日通り」沿いの麟祥院にある。よく知られているように、春日局の父は、光秀の重臣として光秀と共に討たれた美濃の名族、斎藤利三で、父の死後、母の実家の姻戚である稲葉正成の妻となり、正勝・正定・正利の三人の男子を産む。将軍家の乳母となり、徳川秀忠・お江の長男、竹千代を三代将軍家光に育て上げただけでなく、江戸城に大奥という組織を作り上げた。

麟祥院(臨済宗妙心寺派)
『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.67 mapB の上に貼ってある写真47(日本橋三越本店)を透かして見ると、下に「麟祥院 春日局墓」の文字が見える。
麟祥院は、春日局が家光から拝領した土地に、野州宇都宮興禅寺の渭川周劉禅師が招かれ菩提寺となった。春日局の像としてよく目にする、朝廷より賜った従二位緋袴を着けた寿像は、局の還暦を祝して家光が狩野探幽に描かせたもので、麟祥院の寺宝となっている。
門前の春日局像は、1989年に春日局を主人公とした大河ドラマ(橋田壽賀子脚本)が放映されたのを機に、文京区が設置したもの。また境内には「徳川家光を将軍へ導いた女性、春日局様」の漫画パンフレットなどもあり、令和の若者や子供たちにもアピールを怠っていない。

麟祥院門前春日局像
麟祥院門前春日局像
麟祥院春日局墓所
麟祥院春日局墓所
麟祥院まんが
麟祥院まんが

小田原・紹太寺の稲葉家墓所にも、春日局の供養塔がある。
長興山紹太寺『ホントに歩く東海道』第3集 MapNo.11 mapC 23 写真23

紹太寺しだれ桜 ホントに歩く東海道第3集
紹太寺しだれ桜 ホントに歩く東海道第3集

黄檗宗の寺で、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師に学んだ鉄牛和尚が開山。当初は小田原城下にあったが、春日局の孫にあたる稲葉美濃守正則が、寛文九年(1669)現在地に移建し、稲葉一族と春日局の菩提を弔うものとした。
寺の入口は東海道ウォーカーなら必ず見ているはずだが、墓所まではほぼ1時間の山登りとなるので、時間と体力の余裕を見ての寄り道がおすすめ。ずらりと一族の供養塔が並んでいるが、詳しい説明がついており、春日局のものと思われる塔の下部に「春日」の文字を見ることができる。
3月下旬から4月にかけては、「長興山のしだれ桜」として天然記念物になっている樹齢340年の桜を見に、多数の見物客が訪れる。

小田原紹太寺
小田原紹太寺
紹太寺稲葉墓所への登り口
紹太寺稲葉墓所への登り口
紹太寺稲葉家墓所
紹太寺稲葉家墓所説明