どこにいる家康 ロゴ画像

豊臣家は、大坂冬の陣で大坂城を攻撃され和睦に応じたが、牢人や兵糧を集め、家康に臣従する気配はなく、徳川側も京都へ兵を進めた。
茶々の妹らが戦いにならぬよう交渉を続け、家康が茶々に戦の乱世は我々の代で終わらせよう、と直筆の手紙を送ったりするも、秀頼自身が生まれて初めて胸が熱くなってしまい、戦に踏み込んでいく流れとなる。

舞台は、大阪市、京都市、静岡市。

もくじ
●第47回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(茶々(淀君)関連)

●第47回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第47回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.その後の千姫と秀頼の遺児たち
  2.庶民女性の戦乱サバイバル記録第二弾、おきくの大坂城脱出記
  3.三姉妹の中で最も地味ながら一番長生きした京極お初(常高院)

●ギャラリー(大阪城周辺)

第47回「乱世の亡霊」▼動静

00分 大坂の陣の回想
 天守が崩れて千姫をかばった茶々が生きている。

02分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
豊臣が徳川に「和議に応じる」と言って来た。千姫も無事だった。
家康は、阿茶に和議を任せることにした。
家康「二度と大坂城を戦えなくすることが肝要」

03分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

06分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
<ナレーション>大坂冬の陣は和睦交渉に入り、豊臣全権に選ばれたのは茶々の妹の初でございます。

「なぜ、私が……」
大野治長「お初様は、京極家に嫁がれ、徳川様にも縁のあるお方」

初は、徳川側に3つのことを約束させてこいと命じられる。
①豊臣家の所領の安堵、②秀頼と茶々は江戸へはやらぬ、③牢人に所領を与える

茶々「初や、相手の阿茶は狡猾。菓子などで丸め込もうとするかもしれぬ。一切その手にはのらぬように」

▼07分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
菓子をモリモリ出されて、嬉しそうに食べる初。
「3つのことは約束してもらえますか?」
阿茶「所領の安堵と秀頼様を江戸に出さぬことは約束します。しかし、牢人に所領を与えるのは無理。めし放つのが精一杯です。ただし、大坂城の堀は全て埋め立て、本丸以外は破却してください」
「本丸以外の破却と堀を埋めるのは豊臣にお任せくださるなら」とにんまりする。

▼08分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
初が帰った後、阿茶は「のんびりそうに見えて、賢い方でした」と家康に報告する。
雪が降ってきて、家康は「駿府へ帰ったほうがよい」と気遣われる。

09分 慶長20(1615)年
<ナレーション>かくして、大坂冬の陣は和睦のうちに終了するも、戦の火種は残ったままでした。

10分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
徳川軍が大坂城の堀を埋めていると、大野治長が止めにくる。
本多正純「なかなか進まないので、我らがお手伝いさせていただいております」
大野「徳川が卑怯な真似をすれば、諸国から豊臣の見方がどんどん増えるぞ」

大阪城
大阪城

10分 京都・高台寺<京都市東山区高台寺下河原町526/「ホントに歩く東海道」第15集 №64 mapA 16霊山観音の北>
高台院(寧々)を訪ねてきた茶々に、「豊臣は徳川にあらがう意志はないと示すべきだ。牢人は自分の食い扶持のために集まっているだけなので、めし放て」と諭す。
「今の豊臣が、徳川に代わって天下を治められると思うか?」と問うと、
茶々「豊臣の正室のお言葉とは思えません!」と反論。
寧々「豊臣のためを思ってやっているのか? 自分の野心のためでは?」
茶々「私は豊臣とこの国の行く末のためにやっている!」

12分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀頼は、真田信繁が槍の訓練をしているのを見る。

12分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
<ナレーション>徳川と豊臣は一触即発の状況が続き、それをやわらげようと初が家康を訪ねました。

初は、丹波の小豆でこしらえた「ぼた餅」を貢いだ。
初に会いに駿府に来た妹の江(秀忠の妻)との再会を喜ぶも、家康の差し金と知り、冷める。

14分 駿河・駿府城家康の部屋)<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図> 
家康は「南無阿弥陀仏」の習字練習をながら、大坂では豊臣が兵糧を集め、牢人も増えているとの話を本多父子から聞く。
家康「戦を飯の種にしおって。それはまだいい。米を与えればよいのだから。やっかいなのは、戦うこと事態を求める輩。100年にわたる乱世が生み出した恐るべき生き物だ。わしもその一人かもしれない。これが滅びないと戦はなくならない」

家臣が文書を届けて、本多正純が読む。
正純「都からの知らせで、牢人が京の町に火を放ち、死人がだいぶ出たそうです」

15分 駿河・駿府城(初との面会の部屋)<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図> 
家康は、初に京都からの文書を見せた。
家康「これは豊臣が和議を反故にしたということ。わが軍勢をもって、豊臣を攻め滅ぼす」
「お待ちください。牢人が勝手にやったことです」
家康「なら、ただちに牢人をめし放ち、豊臣は大坂を出て大和伊勢の大名となり、私の配下となることを受け入れてもらわなければならぬ」
「説得します」
「私も姉と一緒に行かせてください。二人で茶々姉さんを説得します」

▼17分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々は、秀頼の背丈が刻んだ柱をなでながら、寧々に言われた言葉を思い出している。

18分 京都・二条城(中京区二条通堀川西入二条城町541)
<ナレーション> 慶長20(1615)年4月、徳川幕府軍は戦に備えて京へ。

二条城の家康のもとに、寧々、江、初が訪ねてくる。

家康「我らの求めに応じてもらう。それが豊臣が生き残る最後の機会だ。寧々さまにもお力添えを願います」
寧々「私にできることはもうない。茶々は頭のいい子だから、戦になればどうなるかはわかっているはずです。秀頼を死なせたいとは思っていない。
しかし、思い返すと、茶々は豊臣に来た時から、何を考えているかわからない子だった。親(浅井長政・お市の方)の仇(豊臣秀吉)の男に娶られ、その男を喜ばせ、その子(秀頼)を産み、その家(豊臣家)を乗っ取り、天下を取り返そうとする。私のような者には、その思いは全くわからない。わかるとすれば、姉妹でわる江と初、あるいは大御所様(家康)か。私の役目はもう終わりです」

と言って寧々は帰る。

「姉には憬れの人がいました。本能寺の変の時に、その方も狙われてると知り、姉は無事を祈っておりました」
<回想 秀吉に攻め込まれ、北之庄城で柴田勝家とともに母、お市が自害する。>
江は、母が家康を尊敬し、憬れの人になっていたと家康に伝える。それが裏切られた(北之庄城に助けにこなかった)とわかった瞬間に、その思いは憎しみとなったという。そして、秀頼を自分の思い通りの憬れの君に育て上げた。
「姉は信じていたのです。偽物の天下人を倒すことが世のためだと」
「姉を止められるのは、私たちではないと思います(大御所様です)」

家康は二人が帰った後、茶々に手紙を書いた。

26分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
初と江の姉妹が豊臣秀頼に家康のメッセージを伝える。
「牢人をめし放ち、豊臣は大坂を出て大和伊勢の大名となり、江戸へ参勤しろ」

秀頼は、熟慮して返答すると応じる。
江は、茶々に家康からの手紙を渡す。
茶々は江に、娘である千姫と話してよいと許可する。
嬉しそうに千姫に自分からの櫛と家康からの「ぺんすう(鉛筆)」を渡す母親の江に、千姫は「私は豊臣の妻です。お達者で」と言って突き返す。

31分 京都・二条城(中京区二条通堀川西入二条城町541)
大坂から戻ってきた江が、千姫にとられた態度に号泣。

31分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々は、家康からの手紙を読む。
「茶々殿。赤児のときのぬくもりを、今も鮮やかに覚えております。そのあなたを乱世へ引きずり混んだのは、私なのでしょう。
今さら、私を信じてくれとは申しません。
ただ、乱世を生きるのは、我らの代で十分。子どもらに、受け継がせてはなりません。
私とあなたで、全てを終わらせましょう。
乱世の生き残りを根こそぎ引き連れて、滅ぶ覚悟です。
されど、秀頼殿はこれからの世に残すべきお人。いかなる形でも、生き残らせることが、母の役割である。かつてあなたの母がなさったように」
茶々は、感動して涙する。

34分 大坂城・家臣等を集めた部屋(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々「秀頼、母はもう戦えとは言わぬ。徳川への返事はそなたが本当の心で決めよ」
秀頼「お千、前に私の本当の心が知りたいと申したな。あれから考えた。ずっと母の言う通りに生きてきた私に、本当の心はあるのか、と。しかし今、ようやくわかった」
と言って立ち上がると、牢人たちが集まっている縁側へ出て行く。

秀頼「余は、今生まれて初めて胸の奥が燃えたぎるのを感じている。余は、戦場でこの命を燃やしつくしたい!
天下人は家康ではなく、この秀頼である。それが、この国の行く末のためだ。
私は信長と秀吉の血を引く。正々堂々と戦って徳川を倒してみせる。
私は決して皆を見捨てない。共に乱世の夢をみようぜ!」

秀頼が「異論はないか」と茶々に聞くと、「よくぞ申した」と応じる。

千姫「徳川を倒しましょう」
秀頼は牢人たちとともに「エイエイオー」と、ときの声を上げ続ける。
それを見て、茶々は家康からの手紙を火鉢に投げ捨て、燃やしてしまう。それを見た初。

41分 京都・二条城(中京区二条通堀川西入二条城町541)
家康が「南無阿弥陀仏」の習字練習をしていると、「豊臣に大和郡山城が落とされました」との知らせが入る。
秀忠「これが豊臣の返事か」
本多正信「秀頼が、乱世の最後の化け物なのかも」
家康は聞きながら「南無阿弥家康」と書く。

潤礼紀行47 茶々(淀君)ゆかりの場所

大坂城公園(大阪市中央区大阪城1−1/<「ホントに歩く東海道」第17集 №64 mapB 26三十三間堂の東>
秀頼と運命をともにすることを選んだ茶々。しかし茶々の面影を感じられる場所はわずか。
→潤礼紀行46参照

東光院(豊中市南桜塚1-12-7)
かつては大坂城の近くにあった。古くから「萩の寺」として知られ、茶々は何度も訪れた。萩の茎で作った筆を使い、写経や歌を詠んだりした。「秋萩を 惜しては好きし 徒草(あだぐさ)の 花摺衣(すりころも) 露にぬるとも」

養源院(京都市東山区三十三間堂廻町656/<「ホントに歩く東海道」第15集 №64 mapB 26三十三間堂の東>
文禄3(1594)年、茶々が父・浅井長政のために創建。大坂の陣後、寺は焼失。その後、反対はあったが、妹江の希望で、元和7(1621)年(茶々と秀頼の七回忌の年)に伏見城の遺構を移し再建された。長政の位牌とともに茶々、秀頼、市の位牌も祀った。伏見城で鳥井元忠らが自刃した血がしみた「血天井」が有名。

養源院(№60-26付近)
養源院(№60-26付近)

第47回「どうする家康」の舞台関連マップ


どこにいる家康47「乱世の亡霊」発展編(by(し)

第45回で、家康がウィリアム・アダムズ(三浦按針)に命じて入手したカルバリン大砲。家康としては抑止力のつもりであったのが、実際に使わざるをえなくなり、多くの非戦闘員が犠牲になるという、戦争の最も悲惨な面が再び前面に出てくる。従来の「内堀・外堀」という家康の「腹黒狸」説はとらず、普通に「堀を埋める」のが和平条件で、その実行過程での行き違いという解釈は、最新の研究によるものか。

最終回のみを残すことになった今回のサブタイトルは「乱世の亡霊」。これまでのドラマでは、徳川憎しに凝り固まって現実認識のできない淀殿が突っ走り、秀頼はどちらかといえば和平論者だったのに母を止めることが出来ず、共に破滅という描き方が主流だったと思うが、今回は、最後の最後で淀殿が「豊臣の意地は充分に示した」と最終的決断を秀頼に委ねる。そして秀頼が選んだのは、自らが乱世の亡霊の集大成となる道だった。

紀行で紹介された養源院は、淀殿が父浅井長政の追善のために建立したもので、養源院は長政の院号である。開山は比叡山の高僧、成伯法印で、長政の庶弟あるいは従弟といわれる。その後火災に遭い焼失したため、淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠正室、お江が再建し、德川家の菩提所にもなった。現在の本堂はこの再建時のもので、伏見城の遺構が用いられている。

養源院 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 mapB
三十三間堂と智積院の間、後白河天皇陵の向いのあたり

1.その後の千姫と秀頼の遺児たち

大坂落城後、千姫が本多平八郎忠勝の孫である忠刻と再婚したことは良く知られている。千姫がイケメン忠刻に一目惚れしたという通説もあるが、『家康を愛した女たち』(植松三十里、集英社文庫2022)には、阿茶局が千姫を説得して再縁させる経緯が描かれている。ちなみに本多忠刻の生母、熊姫は、家康の長男で非業に死んだ信康と、信長の娘五徳姫の間に産まれた娘で、嫁姑ともに家康の孫であり、信長・お市兄妹それぞれの孫でもあるという数奇な縁でつながっている。信康と五徳の間には二人の姫が生まれ、長女の登久姫は信濃松本藩初代藩主、小笠原秀政に嫁ぎ、次女の熊姫は本多忠勝の嫡男忠政に嫁いで、忠刻を始め三男二女を産んだ。信康の死後、五徳は織田家に戻ったため、登久姫・熊姫姉妹は、家康の庇護のもと、古参の側室である西郡局(第10回参照)に養育されたという。

対談集『歴史のヒロインたち』(文春文庫1990)では、永井路子・円地文子両氏が、熊姫が本多家への千姫の再縁を家康に強く願ったと言っている。千姫が本多家にもたらした恩恵は大きく、姫路城の化粧櫓は千姫の持参金で作られた。そういう思惑もあったのだろうが、家康自身も徳川家の安泰のために長男信康を犠牲にし、さらに孫娘の婚家を滅亡に追いやったことには深い後悔があったと思われ、この縁組が少しでも罪滅ぼしになればという思いもあったのではないだろうか。

千姫が輿入れした姫路城の北西には、姫路城を一望する男山があり、14世紀半ばに京都石清水男山八幡宮(『ホントに歩く東海道』第16集MapNo.63 mapB 17)から八幡宮が勧請されていた。千姫は男山の中腹に天満宮を建立し、本多家の繁栄を願って西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われる。本多忠刻と千姫は幸せな結婚生活を送ったが、まもなく忠刻は若くして病死。幼い長男にも先立たれた千姫は江戸に戻って落飾し、天樹院としてその後の生涯を竹橋御殿で送った。

ドラマには全く登場しなかったが、秀頼は千姫との間には子をもうけなかったものの側室との間に一男一女があった。男児「国松」は六条河原で処刑されたが、女児は尼となることを条件に助命された。この女児の庇護者となったのが天樹院、千姫である。女児のほうは俗名が明らかでなく、いろいろな小説の中でそれぞれ違う名前がついているが、尼としての法号は「天秀尼」で、縁切寺として名高い鎌倉の東慶寺の住持を務め、多くの女性を救ったとして語り継がれている。先述の対談集『歴史のヒロインたち』の天秀尼編では、ゲストが当時の東慶寺住職、井上禅定氏で、天秀尼に救われた女性の子孫が御礼に訪れたなど興味深い体験が語られている。東慶寺は北条時宗夫人、覚山尼の開山で、南北朝時代には後醍醐天皇の皇女、また関東公方・古河公方・小弓公方らの娘が代々住持となった。幕府に縁切寺法を認められていたのはこの東慶寺と上野国満徳寺の二寺のみで、満徳寺は、千姫の乳母・教育係であった刑部卿局が住持を務めたといわれる。

御舟入跡 『ホントに歩く東海道』第16集MapNo.64 mapD 24 写真24
千姫が豊臣秀頼に嫁いだ時、伏見の御舟入跡から船に乗って大坂城に入った。御舟入は、宇治川と山科川の合流点に設けられた河港で、慶長元年(1596)の山城大地震のあと、伏見城再建の木材や石材を運び入れるために作られた。

御舟入跡(2016年)第15集発行当時
御舟入跡(2016年)第15集発行当時
御舟入跡(2024年)
御舟入跡(2024年)場所も移動している

2.庶民女性の戦乱サバイバル記録第二弾、おきくの大坂城脱出記

第43回で、関ヶ原で敗北した西軍の拠点、大垣城をたらい舟で脱出した「おあむ」の物語を紹介したが、それとセットのように伝えられているのが、大坂城を脱出した「おきく」の物語である。おきくは、祖父が浅井家に仕えていた縁から、大坂城で淀殿の侍女をしていたが、父は大坂の陣で討死、いよいよ徳川の総攻撃が始まり落城も近いと悟ったおきくは、「帷子を取り出し三つ重ねて下帯も三つして、秀頼公より拝領の鏡を懐中して」城外にしのび出る。しかし周囲は敵兵に加え、混乱に乗じて強盗や暴行を働く餓狼のような輩がうようよして危険きわまりない。そんな中、おきくは幸運にも、ぎりぎりまで和平工作につとめた京極家のお初(=常高院、『おきく物語』では「要光院」)の一行が警護の兵に守られ城を落ちる所に遭遇。重ね着していた衣類を一行の侍女に分け与えるなどして首尾良く一行に加わったおきくは、無事に京都まで逃げのび、秀吉の愛妾だった松の丸殿(常高院の義理の姉で従姉妹でもある)に再就職、備前池田家の藩医である田中家に嫁いだ。

『おきく物語』は彼女の死後、田中家と交流のあった医者が所蔵していたものらしく、筆者や書かれた時期についての詳細は不明のようだが、落城の時20歳だったおきくが備前で83歳の天寿を全うしたと記されている。おあむもおきくも、修羅場でも冷静さを失わず、最適な判断で行動できる素質を持っていたに違いない。そして二人とも長寿に恵まれたおかげで、お市や淀殿など、権力の近くにいた女性たちとは異なる立場からの貴重な記録を残すことができた。

おきくを保護した松の丸龍子(寿芳院)は、大津城で弟の京極高次・お初夫妻と共にいたが、関ヶ原の戦いの後は高次のもとを去り、京都で暮らしていた。おきくから秀頼の遺児、国松の処刑を聞いた龍子は、その遺体を引き取り京都三条寺町の誓願寺に埋葬した。誓願寺は清少納言や和泉式部も帰依した女人往生の寺で、謡曲にも和泉式部の霊が登場する「誓願寺」がある。寛永十一年(1634)に死去した龍子も、誓願寺の山内寺院である竹林院に葬られたが、明治になって、国松の墓と共に、京都東山阿弥陀ヶ峰の豊国廟の参道下、太閤坦(たいこうだいら)に移転した。

誓願寺 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 mapA
マップ外になるが、三条大橋からやや四条寄りを西へ進み、河原町通りと寺町通りの間にある桜之町453番地
https://www.fukakusa.or.jp/smt/p012.html”https://www.fukakusa.or.jp/smt/p012.html

豊国廟・太閤坦 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 mapB 23
秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰に埋葬され、秀吉を祭神とする豊国廟が造営されたが、豊臣家滅亡により御神体は方広寺に移され、豊国廟の改修も禁じられた。明治になってようやく再建される。太閤坦は豊国祭礼の場であった広大な敷地。

大坂城 『ホントに歩く東海道』第17集 MapNo.68 コラム68

弁天島・弁天祠 『ホントに歩く東海道』第17集 MapNo68 mapA 7
現在、城見という町名で大阪ビジネスパークとなっている一画は、寝屋川と平野川とに挟まれた砂州で、弁財天を祀る祠があったことから、昔は弁天島と呼ばれた。淀殿はこの弁天祠に熱心に参拝しており、その死後、弁天祠の傍らに淀姫神社が建立された。明治維新後、島は陸軍の砲兵工廠の一部になり、弁天祠と神社は、かつて大坂城の敷地内であった生國魂神社の境内に移転された。

鯉塚 『ホントに歩く東海道』第17集MapNo.68 mapA 8 写真8
「心中天網島」の紙屋治兵衛・小春の比翼塚で有名な大長寺。比翼塚の隣に、大坂の陣の戦死者を葬った鯉塚がある。「鯉」の名は、大長寺の住職が、淀川で採れた巴紋のある大きな鯉を境内に葬ったところ、その鯉の元の姿は大坂の陣で討死した武者であったという夢を住職が見たためといわれる。

大長寺(№68-8)
大長寺(№68-8)

高麗橋の擬宝珠 『ホントに歩く東海道』第17集 MapNo.68
高麗橋は大坂城の外堀として開削された横堀川に架けられた橋で、立派な擬宝珠があった。橋の名の由来は、古代朝鮮半島からの使節を迎える迎賓館とか、秀吉の時代に朝鮮との通商を行う商人が集っていた等の説があるが、いずれにしても朝鮮との関わりがあった場所と思われる。大坂の陣で、橋の擬宝珠は徳川方の安藤右京之進重長が戦利品として持ち帰り、安藤家に長く伝えられていたが、謎の経緯で昭和の首相吉田茂の所蔵品となり、昭和44年、吉田の遺言により350年ぶりに大阪に返還され、現在は大阪城天守閣に保存されている。

3.三姉妹の中で最も地味ながら一番長生きした京極お初(常高院)

浅井三姉妹の真中で京極家に嫁いだお初、後の常高院は、姉の豊臣家と妹の徳川家の和平工作に心を砕く存在として、戦国大河ドラマには必ず登場するが、三人の中では最も出番も少なく地味な存在である。しかし「どうする家康」では、阿茶局がお初について「一見のんびりおっとりに見えるが、油断できないお方」と評していた。先述の対談集『歴史のヒロインたち』でも、
「おちゃちゃ、おごうと比べると地味ですが、はでな二人の間で実に要領よく立ち回って」「世渡りのうまい」(永井路子)
「表面にはでてこないけれど舞台裏でうまくやってるしたたか者」(円地文子)
とかなり言いたい放題言われている。この対談集は1990年の文春文庫であるが、実際に対談が行われたのはそれよりかなり前で、同性ならではの厳しい批評が男性読者にウケるという当時の世相が窺われるが、それを差し引いても「一見頼りないが実はしっかりちゃっかり」的な所はあったに違いない。夫の「蛍大名」京極高次と連れ添って乱世を生き抜き、明治維新まで続いた京極家の基礎を作った女性である。

京極高次と関ヶ原の前哨戦、大津城籠城戦については、第42回で述べたが、この大津城の石垣を作った近江の穴太衆については、『塞王の楯』(今村翔吾、集英社2022)が面白い。妻のお初や姉龍子(松の丸殿)など、権力者秀吉につながる女性の縁を頼りに甘い水を求めてふらふらと飛ぶ「蛍大名」と揶揄され続けた京極高次であるが、関ヶ原戦で立花宗茂らを大津で足止めさせた功績ばかりでなく、近江八幡から職人商人を移住させて城下町大津の町づくりを行うなど、決して暗愚な城主ではなかった。「弱く頼りない主君こそが生き延びられる」という、一昨年の大河「どうする家康」と共通する所もある。

『ホントに歩く中山道』マップの京極家の墓所、徳源院は、第42回で紹介したが、お初常高院の墓は、徳源院ではなく、若狭小浜の常高寺にある。小浜は京極高次が慶長十四年(1609)に死去した土地。落飾して常高院となったお初は、夫の死後四半世紀を生き、三姉妹で一番の長寿を全うして、妹お江の死も見届けた。常高院は晩年を江戸の京極屋敷で過ごし、お江と親しく行き来していたという。それでも江戸ではなく小浜に埋葬されたのは、彼女が夫と過ごした小浜に思い入れがあったためであろうか。常高院はその院号である常高寺を寛永七年(1930)小浜に建立、その3年後に江戸で死去した。遺骸は塩漬けにされて小浜に運ばれ、常高寺に埋葬された。京極家はその後あちこちに移封されたが、常高寺と常高院の墓所は現在まで小浜に存続している。常高院の墓の周囲には侍女たちの墓も主を取り巻くように並び、仕える者たちに慕われていた常高院の人柄を偲ばせるという。

どこにいる家康 第47回 ギャラリー  大阪城周辺(ホントに歩く東海道第17集№68)