どこにいる家康 ロゴ画像

秀頼が再建した方広寺の梵鐘に刻まれた<国家安康><君臣豊楽>の文字がきっかけとなり(方広寺鐘銘事件)、豊臣と徳川が戦争に突入。
急に織田信雄が常真という僧侶になって登場、徳川と豊臣の板挟みになって暗殺されようとしていた片桐且元を救う。
圧倒的な兵力の差があった徳川(30万)と豊臣(10万)だが、真田信繁が築いた真田丸に苦戦し、家康は孫娘千姫がいる大阪城を大砲で攻撃する。
舞台は、大阪市、東京、静岡市。

もくじ
●第46回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(大阪府大阪市)

●第46回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第46回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.片桐且元
  2.金地院崇伝と林羅山
  3.大坂の陣に関連する東海道・中山道の家康史跡

●ギャラリー(大阪城公園)

第46回「大坂の陣」▼動静

▼00分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
家康は、三浦按針からもらった「ペンソー(鉛筆)」でネコの絵を描いている。
家康が「お千(家康の孫、秀忠の妻となった千姫)は、絵を描くのが好きだった」と阿茶に話す。
大坂攻めの作戦図「天王寺」の文字の横に、思わず「お千」と書いてしまう。

▼02分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
慶長19年(1614)、豊臣秀頼と大野治長が碁を打っているのを、千姫と秀頼の母親の茶々が見ている。
大野「そろそろ(徳川側が)騒ぎ出す頃」
秀頼「もし、そうなったら?」
大野「このときを待っていたという多くの者が、秀頼様の元に集うでしょう」
千姫「何の話ですか?」
茶々「もうすぐ、豊臣の世が蘇るのじゃ」

<ナレーション>豊臣の威信をかけて秀頼が建立した大仏殿。その梵鐘に刻まれた文字が、徳川に大きな波紋を投げかけた。

方広寺の梵鐘。<国家安康><君臣豊楽>
方広寺の梵鐘。<国家安康><君臣豊楽>

▼02分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
家康の元へ、秀忠、阿茶、本多父子など、家康幹部が集結。

林羅山(儒学者)「<国家安康>は家康を首と胴に切り分け、<君臣豊楽>は豊臣を主君とするよう楽しむ。明らかに呪詛の言葉。徳川を憎む者はこれに快哉を叫び、豊臣の世をさらに望むことでしょう」
金地院崇伝(臨済宗僧侶)「それは言いがかりというもの。言葉通り、国家の安康と君臣とともに願うもの。他意はない、と豊臣は申すでしょう」
羅山「大御所様(家康)の文字が刻まれているのを、豊臣が気づかないはずがない」
崇伝「あくまで、大御所様をお祝いする意図で、と申すでしょう」
秀忠「崇伝、お前はどっちの見方なのだ!」
本多正信「要するに、これを見逃せば幕府の権威は失墜し、豊臣をますます増長させる。されど処罰すれば、卑劣な言いがかりをつけてきたと見なされ、世を敵に回す。実に見事な一案」
阿茶「おとなしくしておれば、豊臣は安泰なのに」
秀忠「なにゆえ、ここまでして豊臣は天下を取り戻そうとするのか?」
家康「倒したいんだろう、このわしを」

<ナレーション>神の君、最後の戦の時が迫っておりました。

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
<ナレーション>加藤清正ら、豊臣恩顧の古参家臣たちは相次いでこの世を去り、今や片桐且元のみが、かろうじて徳川と豊臣の中をつないでいた。

片桐且元「全て私の不手際。鐘はすぐ鋳つぶします」
本多正純「それで済む話ではない。度重なる徳川への挑発、もはや看過できない。①秀頼公には大阪を退去していただく。②他の大名たち同様、江戸に屋敷を持ち参勤していただく。③茶々様を江戸へ人質として差し出していただく」
且元「穏やかに収めとうございます。千姫さまも心を痛めております」
家康「今の3つのうちのいずれかを飲むように、と言い聞かせよ」
且元「ははっ」

▼08分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々「さような求め、どれ一つ受け入れられない」
大野「これは徳川の謀略、いいがかり。豊臣をつぶす謀に他ならない。古狸の悪辣な企み、断じて許してはならぬ」
且元「修理!(大野)」と叫ぶ。「こうなるとわかってあの文字を刻んだな!」
大野「片桐殿が頼りにならないので」
且元「戦をして、豊臣を危うくする気か」
大野「徳川に尻尾を振って、豊臣を危うくしているのは、あなたでしょう」
且元「秀頼様、引き続き徳川様との取り次ぎ、私に務めさせてください」
秀頼「むろん、頼りにしておる。ひとまず屋敷で休め」と言われ、且元は退出する。
大野「且元は、完全に狸にからめとられています」
茶々「面白くないのう」
やり取りを見ていた千姫、困る。

▼11分 大坂城 秀頼と千姫の寝所(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
千姫「且元を亡き者にすると、戦になるということですね」
秀頼「余は、徳川から天下を取り戻さねばならぬ。それが正しいことだとわかってほしい。案ずるな。そなたの父やおじじが、そなたに手出し出来るか。そなたは安全じゃ」
千姫「あなたさまは、本当に戦がしたいのですか?」
秀頼「余は、豊臣秀頼なのじゃ」

▼13分 江戸城(千代田区千代田1−1)<『ホントに歩く東海道』第1集、『ホントに歩く中山道』第17集>
秀忠「豊臣と戦をすることになっても、兵力の差は歴然。少し懲らしめれば、豊臣もこちらの要求をのむだろう」
「ならば、殿がこの戦の総大将をお務めになっては? 大御所さまにお頼みになっては? ねっ!」
秀忠(困った顔)「お千のことを案じているのか?」
「見捨てる覚悟はできていますが……」
秀忠「父上は孫をかわいがっている。ひどい仕打ちはしないよ」
「そうでしょうか。戦となれば、鬼になれるお方では。姉(茶々)も一歩も引かぬ性格。何が起きてもおかしくない。あなたがお指図なさいませ」

▼15分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
宴会をしている。
茶々「皆の衆、大いに飲みなされ」

<ナレーション>着々と戦の準備を進める豊臣は、かつて大軍を率いた武将たちを集めていた。関ケ原の生き残りの長宗我部盛敦や毛利吉政、また今は出家して織田常真と名乗る信雄。

信雄(常真)は宴席で、小牧長久手の戦いで、家康とともに秀吉と戦いながら勝手に和睦したのに、自分が活躍したかのように自慢する。
(➡どこにいる家康31回、織田信雄のイメージチェンジ参照

信雄「あのときは徳川もよくやったが、総大将はわしだった。ハハハ」

千姫はいたたまれなくなり、宴席の場から廊下に出る。
厠に立った信雄が千姫に気づき、話しかける。

信雄「戦は避けましょう。あなたのおじいさまには世話になった。戦はやりたくない。
   わしの最も得意とする兵法をご存じかな? 和睦でござる。
   大丈夫。わしと片桐でなんとかします」
千姫「片桐殿は、おそらく明日、大野殿に……」と、信雄に大野による片桐暗殺計画を伝える。

▼17分 大坂城・大野の部屋(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
大野の家臣「片桐に感づかれました」
大野「(殺)し損なったのか!」

▼17分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
本多正純「片桐が大坂から離れたそうです。大野のだまし討ちを織田常真様が聞き出し、間一髪で難を逃れたそうです」
阿茶「お二人とも今は伏見に。京の五徳殿(信長の娘、家康の息子信康の妻)が手助けしたそうです」
家康「これで、我らと話し合える者が豊臣にはいなくなった」
正純「これが豊臣の返答です。すでに戦の準備を始め、さらに10万とも20万も下らぬ兵を集めているとも」
家康「諸国の大名に、大阪攻めの触れを出せ。正純、大筒(大砲)の用意もだ!」

家康が鎧を眺めていると、本多正信が訪ねてくる。
正信「秀忠様は、総大将となって全軍を率いると仰せでございます。されど、本音はお千様のことを案じている。秀忠様にお任せしてみては?」
家康「秀忠は戦を知らぬ。いや、知らんでよい、人殺しの術など。この戦は徳川が汚名を着る戦となる。信長や秀吉同様、わしは地獄を背負ってあの世へ行く。それがわしの最後の役目」
正信「それがしも、おともします」

家康は、<南無阿弥陀仏>の文字を習字で練習している。

▼23分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
豊臣に集められた兵たちが、「自分が家康の首を上げる」と意気込んでいる。
秀頼、茶々、千姫が登場。

秀頼「豊臣に忠義を尽くしてきた皆々。苦しく、ひもじく、恥辱に耐える日々を送ってきたことであろう。よくぞここに集まってくれた。心より礼をしよう」

大野が、大谷刑部の息子・吉治、関ケ原の生き残り、後藤又兵衛、明石全澄(てるずみ。宇喜多秀家の家臣)などを紹介。

茶々「天下を我らの手に取り戻そう」
一同「オオー」(雄叫び)
茶々「お千、豊臣の妻として、皆を鼓舞せよ」
千姫「豊臣のために励んでおくれ」と泣きそうになりながら言う。

▼27分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
<ナレーション>慶長19年冬。徳川は30万の大軍勢で天下一の城塞都市大阪へ進軍。対する豊臣は10万。14年ぶりの大戦、大阪の陣の始まりでございます。

▼28分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
<ナレーション>家康は、大坂城から一里ほど南の茶臼山に本陣を構えた。
豊臣を離れた片桐且元を徳川に迎え入れた。

家康「片桐殿、大阪の内情、大いに教えてもらいたい。期待しておる」
正純「こたびの戦は若い衆が多いので、渡辺守綱様にご指導賜りました」
家康(守綱に)「そなたのような兵が私の宝。その全てを若い衆に伝えてやれ」

大坂の陣の配置絵図。

秀忠が得意げ家康に布陣を説明していると、家康は「指図は全てわしが出す」と遮る。

▼31分
慶長19(1614)年11月
<ナレーション>大坂城周辺で徳川VS豊臣の戦が始まる。
その全ての戦で数に勝る徳川勢が勝利を収めていった。されど、豊臣が話し合いに応じることはなかった。

▼32分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀頼「何も案ずることはない。この大坂城は難攻不落。籠城すれば落ちることはない」
大野「仰せの通り。備前島に徳川は大筒を並べているが、あんなこけおどしに頼るようでは、徳川も地に墜ちたもの」
茶々「それに大軍といえども、長らくの太平をむさぼってきた、ただの飼い慣らされた犬。大して我が軍は、このときを待っていた飢えた虎よ。負けるわけがない」

▼33分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
本多正純「前田勢ら、合わせて三千が討ち死にしました、あの真田丸で」

▼33分 真田丸(大坂城南)(大阪市天王寺区玉造本町14-90)
<ナレーション>立ちはだかるは、今はなき真田昌幸の息子、信繁が籠もる真田丸。

▼33分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
大野「秀頼様。真田の息子がやります! 敵は堀を進むが、顔を出せば真田の鉄砲の餌食。面白いように死んでおります。家康は再三、和議を申し入れて来たが、応じることはありません。我らは戦い続ける。家康が死ぬまで」
一同 「おおー」

▼35分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
家康は「南無阿弥陀仏」の習字練習をしながら、大筒(大砲)の使用を決心。

家康「あれを使え」
秀忠「あれは、脅しのために並べているものでは?」
家康「秀頼を狙う」
秀忠「されど、そうなれば……」
家康「戦が長引けば、より多くが死ぬ。主君たる者、身内のために多くを死なせてはならぬ」

▼37分 備前島砲台(大坂城・北)「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA12あたりか。大坂城の北側の中州を備前島といった>
大砲が大坂城へ向けて発射される。
正純「放て〜」
且元「今頃は、秀頼様は本丸に、女どもはその奥にいると思われます」

▼38分 大坂城本丸(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
砲撃を受け、城内は大騒ぎ。女たちは天守へ逃がされる。

▼39分 備前島砲台(大坂城・北)「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA12あたりか>
且元「おそらく、天守へ向かって逃げるでしょう」とアドバイス。
砲撃は続く。

▼39分 大坂・茶臼山本陣(大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
大坂城への砲撃での死傷者や被害を見て、
秀忠「やめてください、もうこんなの戦ではない」
家康「これが戦じゃ。この世で、戦は愚かで醜い、人の所業じゃ」
泣く家康父子。

▼41分 大坂城天守(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
屋根が落ちてきて、茶々は千姫をかばう。

潤礼紀行46 大阪府大阪市

<ナレーション>
徳川と豊臣の最後の戦、大坂の陣。徳川軍は30万の軍勢で大坂城を囲むが、三方を川で阻まれているため、唯一陸続きの南側から攻める必要があった。

そこで家康は、大坂城の南の茶臼山に本陣を構えた。その家康の前に立ちはだかったのが真田信繁の真田丸だった。
正面に空堀を築き、的を芦生に散らして攻撃する鉄壁の要塞。防御に優れ、攻撃の手も緩めない、徹底した先述が活かされてる。

家康の本陣の正面に築かれた真田丸に、徳川軍は真田の鉄砲の集中砲火に大苦戦した。
その惨状を目にした家康は大坂城の北側、備前島に配置した大筒の使用を決定した。

堺の鉄砲鍛冶がつくった最大級のものもあったと言われている。
放たれた大筒は大坂城を直撃。形勢は一転し、豊臣軍敗北の足音が迫ってくるのです。

大坂城公園(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
大阪城跡は国の特別史跡。天守は1931年に建造され、現在は博物館「大阪城天守閣」となっている。
明治時代になると陸軍用地となり、大阪砲兵工廠が設置された。1945年の大阪大空襲では周辺は大きく被害を受けたが、天守は破壊を免れた。戦後は占領軍に接収され、1948年に公園となった。

特別史跡大阪城天守公園HP
https://www.osakacastlepark.jp/?lang=ja

茶臼山(天王寺公園、大阪府大阪市天王寺区茶臼山町5−55)
茶臼山は、大坂城の南、四天王寺の南西に位置する。大坂冬の陣では徳川家康、夏の陣では豊臣方の真田幸村の本陣になった。

大阪公式観光情報HP
https://osaka-info.jp/spot/chausuyama-tennoji-park/

三光神社(大阪市天王寺区玉造本町14-90)
真田丸は、真田信繁(幸村)が大坂城の南に築いた出城。
三光神社は、真田丸の一部と考えられ大坂城までの地下通路が設けられていたと伝えられる。
境内に、真田幸村の銅像がある。

三光神社HP「真田丸について」
https://www.sankoujinja.com/sanadamaru.html

九度山真田ミュージアム(和歌山県伊都郡九度山町九度山1452-4)
九度山は、関ヶ原の戦後、敗戦した真田家が蟄居を命じられた地。真田昌幸、信繁(幸村)、大助の真田三代の軌跡の展示紹介をしている。

九度山・真田ミュージアムHP
https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/index.html

(こ)記録

第46回「どうする家康」の舞台関連マップ

『ホントに歩く東海道』第1集(日本橋~保土ヶ谷)←江戸
『ホントに歩く中山道』第17集(北浦和~日本橋)←江戸
『ホントに歩く東海道』新訂 第6集(江尻~藤枝)←駿府
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康46「大坂の陣」発展編(by(し)

秀忠とお江のシーン、よく見ると奥の方で男の子が2人遊んでいるように見えたが、後の家光と忠長らしい。秀忠・江夫妻にはなかなか男児が誕生せず、4人の姫の後にようやく長男・次男が誕生したことは知られているが、そのエピソードがスルーされてしまったのは時間の都合だろうか、嫡孫が出来て、家康にとっては、ますます德川家の安泰をはかるモチベーションが高まったと思うのだが。

一方、大坂の千姫にとっては、妹や弟が次々と生まれて、江戸では自分のことなど忘れられてしまったのではないかという気持はなかっただろうか? 大好きなお祖父様が、嫁ぎ先では悪く言われていることに、ずっと心を痛めてきた千姫であるが、非戦闘員の女性たちが大筒の攻撃で死傷、淀殿が危ない所を身をもってかばってくれたことで、和睦を願ってきた心が、豊臣側で戦うしかない! に変化してしまうのかもしれない。

1.片桐且元

片桐且元は、これまでの大河ドラマにも何度も登場しているが、東西の板挟みで常に困り果てた顔をしている弱気なおじさん、というイメージが強い。しかし若い時には秀吉の側近として、加藤清正や福島正則らと共に、賤ヶ岳七本槍と呼ばれる武功派の一人だった(➡第40回参照)。

坪内逍遙は、片桐且元を主人公に戯曲「桐一葉」を書いた。新しい歌舞伎の創作を目指した逍遙は、明治27年(1894)から翌年にかけて早稲田文学に「桐一葉」を連載、明治37年に東京座で初演された。6幕16場から成る大作で、片桐且元が苦渋の末、豊臣家を離れる決意するまでが描かれ、フィクションと思われる且元の娘のラブストーリーなども含まれている。今でもたまに上演されるようで、2016年秋に「花組芝居」という劇団が池袋で上演した時のチラシには、大河ドラマ「真田丸」で活躍の豊臣vs徳川の運命を背負った忠臣の苦悩を描く、というキャッチフレーズが載っている。明治の初演では、十一代目片岡仁左衛門が且元、五代目中村歌右衛門が淀君を演じて当たり役となり、とくに五代目中村歌右衛門の淀君は大評判となって、大坂城落城を描いた続編の「沓手鳥孤城落月」も含め、何度も再演された。二葉亭四迷や夏目漱石の挿絵で名を成し、川瀬巴水らと共に新版画でも活躍した名取春仙(1886-1960)の作品「淀君」は、五世歌右衛門が演じた姿を写したもの。明治の役者絵にはよく登場するので、画家の名は知らなくても見覚えがあると思う。 

名取春仙「淀君」
名取春仙「淀君」

徳川に通じた逆臣として討たれそうになった片桐且元を救ったのは、意外にも織田信雄(常真)であった。秀頼と千姫にとっては、信雄はそれぞれの母の従兄にあたる。自分の最も得意とする技は「わ、ぼ、く」と千姫に告げ、京都にいた五徳(岡崎殿)との兄妹連携で且元をうまく逃がしたという展開になっていた。五徳も久しぶりにワンポイント登場してほしかったが、この連携プレーは史実なのか? 興味深いところである。常真は「桐一葉」にも、数少ない且元の理解者として登場し、強硬な開戦論を主張する大坂の面々について

「盲蛇の血気にはやり、関東方の模様は存じもせで、二言目にはいくさいくさと畳の上の陣立て成し」「畢竟こたびの疑いは察するところ大野親子が、おことをそねみての讒言ならん」

と、負け組とはいえ長く戦国の世を生き抜いてきた長老らしい意見を述べている。片桐且元が命を奪われずに家康のもとに来ることが出来たため、大坂城の内部や淀・秀頼の日常が詳しくわかり、家康にとって大きなメリットとなった。信雄は小牧長久手戦で家康の足を引っ張った(?)黒歴史を、ここで挽回したといえるかもしれない。

ちなみに明治末期から昭和にかけて活躍した画家、織田一麿(1882 – 1956)は信雄の子孫で、版画作品「東京木場風景」などを残している。 

織田一麿「東京木場風景」
織田一麿「東京木場風景」

誓願寺 『ホントに歩く東海道』第6集MapNo.23  mapB13 写真13

片桐且元夫妻の墓 誓願寺 東海道・丸子宿
片桐且元夫妻の墓 誓願寺 東海道・丸子宿

東海道丸子宿、名物とろろ汁で有名な丁字屋(MapNo.23 mapA8)の先、二軒家観音堂の所で国道1号を地下道で渡り、少し奥に入った所にある臨済宗妙心寺派の寺院、誓願寺には、片桐且元夫婦の墓がある。方広寺鐘銘についての弁明のため駿府に向った且元は、駿府城下に入ることを許されず丸子宿に滞在することを余儀なくされたが、その時の宿所であった。且元夫妻の墓は、一族の片桐石州によって建てられたといわれる。誓願寺は建久年間(12世紀末)に源頼朝が開基、その後の戦乱で焼失したため武田信玄が再建した。誓願寺は静岡市の天然記念物に指定されているモリアオガエルの生息地としても知られ、5~7月に境内の池で産卵風景を見ることができる。

2023年11月5日放送の「静岡市歴史めぐり」(語り:春風亭昇太)で、誓願寺案内の動画が見られる。https://www.at-s.com/life/article/ats/1420078.html

2.金地院崇伝と林羅山 

淀殿「惜しいのう。ただ柿が落ちるのを待つのが。家康を倒して手に入れてこそ、まことの天下であろう?」

従来のように、「国家安康 君臣豊楽」方広寺鐘銘事件を「思いもよらなかった徳川方による難癖」ではなく、家康の老衰死を待っていられない淀殿たちが、わかっていて仕掛けたという新しい解釈がなされていた。黙って見逃せば徳川の権威に傷がつき、怒りを表わせば「言いがかり」と誹謗される。権力を持つ立場となったがゆえの難しい選択。SNSが発展した現代も、人気や力を手にした人々には各方面からの挑発があり、見過ごせばナメられている様子が世間に広まるし、反撃すれば大人げないと言われる、というジレンマは多いかもしれない。ドラマでは、豊臣からの挑発は放っておけないと主張する林羅山と、豊臣の言い分を予想し、あたかもその代弁をするような金地院崇伝とのやりとりが面白かった。

林羅山(1583-1657)は、京都建仁寺で仏教を学んだが、僧籍には入らず、その後、藤原惺窩に傾倒し、彼のもとで朱子学を学んだ。徳川家康を始め、秀忠・家光・家綱と四代の将軍に仕え、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わった。『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂や外交文書の起草、朝鮮通信使の応接などその仕事は多岐にわたり、寛永12年(1635)には武家諸法度を起草した。三代将軍家光から上野忍岡に土地を与えられ、私塾と孔子廟を建設。のちに神田の昌平坂に移転し昌平坂学問所の基礎となった。また孔子廟は五代綱吉が移築して湯島聖堂となる。羅山の孫の林鳳岡(ほうこう)の代から林家当代の主が大学頭を称し、代々幕府の教学の責任者としての役割を担うようになった。

以心崇伝(1569-1633)は足利一門の一色氏の出身、臨済宗・南禅寺金地院の僧侶で、金地院崇伝として知られる。後水尾天皇の師となり本光国師の称も与えられている。江戸幕府政治顧問として、徳川家康のもとで法律立案・外交・宗教統制などを一手に引き受け「黒衣の宰相」の異名を取った。現在東京タワーの向いにある芝の金地院は、元和2年(1619)に江戸における崇伝の拠点として与えられたもので、当初は江戸城内にあったが、崇伝の死後移転した。

方広寺『ホントに歩く東海道』新訂第15集 MapNo.60 mapB22 写真22

前回の「潤礼紀行45」で、秀頼・千姫カップルが訪れていた方広寺。秀吉は、奈良東大寺の大仏よりもさらに大きな大仏を方広寺に作ったが、完成の翌年に大地震で倒壊してしまう。方広寺の隣には、秀吉を祭神とする豊国神社がある(mapB23)。

方広寺の梵鐘

湯島聖堂『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.67 mapB33 写真33

湯島聖堂 東京都文京区
湯島聖堂 東京都文京区

林羅山が上野忍岡に建てた孔子廟「先聖殿」を、五代将軍綱吉が湯島に移築して「大成殿」と改称、付随する建物を含め「聖堂」とし、幕府直轄の学問所とした。

金地院 東京都港区芝公園三丁目5番4号

『ホントに歩く東海道』第1集MapNo.1 mapBの上部、惜しい所でマップ外になっている。

3.大坂の陣に関連する東海道・中山道の家康史跡

加藤家の青木門『ホントに歩く東海道』第13集 MapNo.49 mapC26 写真26

加藤家の青木門 東海道・亀山宿
加藤家の青木門 東海道・亀山宿

東海道亀山宿に残る加藤家(加藤家は、江戸後期の亀山城主石川家の家老職を務めた)の遺構は、希少な武家建築として亀山市文化財に指定されている。元和元年(1615)大坂出陣の際、亀山を通った家康が、ここに繁茂する青木を見て「おお青木」と賞賛したため、門を「青木門」と名付けた。

円照寺の家康腰懸石『ホントに歩く中山道』第2集MapNo.8 mapB36 写真36

円照寺の家康腰懸石 中山道・高宮宿
円照寺の家康腰懸石 中山道・高宮宿

中山道高宮宿の本陣跡向かいに、大坂の陣に勝利した家康が、帰路に寄った円照寺で腰掛けた石と伝わる「家康腰懸石」がある。高宮宿は多賀大社の門前町であると共に、麻織物「高宮上布」の集散地でもあり、古来より東山道の宿場として栄えた。弥次喜多道中記にも高宮上布を売りつけられるエピソードがある。

どこにいる家康 第46回 ギャラリー  大阪城公園(2017年3月)