どこにいる家康 ロゴ画像

家康は、19歳になり成長した豊臣秀頼と二条城で対面。
凡庸な徳川秀忠の苦悩と家康の説諭。
家康、三浦按針から西洋時計をもらう。
方広寺鐘銘事件が起こり、流れは戦(大坂冬の陣)へ向かう。
舞台は、京都市、大阪市、東京、静岡市。

もくじ
●第45回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(京都府京都市)

●第45回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第45回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.新旧のプリンスたち
  2.もう一人のプリンス、結城秀康と「越後の淀君」

●ギャラリー(豊国廟)

第45回「二人のプリンス」▼動静

▼00分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
幼い豊臣秀頼(8歳)と茶々、家康がいる場面。
茶々「あと10年もすれば、秀頼も太閤殿下に追いつく。それまで秀頼の代わりを頼みます」と家康に頭を下げる。
そして、19才になった秀頼。

▼01分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
慶長16(1611)年、秀頼は、家臣の前で舞を舞う。
茶々「この天下を、艱難辛苦の末に一つにまとめたのは誰?」と千姫(秀頼の妻、秀忠の娘)に問う。
千姫「太閤殿下です」
茶々「そなたのおじいさま(家康)はその変わりを任されていただけ。秀頼が成長したら天下をお返しくださる約束。そなたの祖父様は、盗人ではあるまい」
千姫「おじいさまは、約束を守る人と思います」
茶々「もし約束を破れば、戦になっても仕方がない」
<関ヶ原の戦いの回想>

関ヶ原ウォーランド 可児才蔵誰かを刺す場面
関ヶ原ウォーランド 可児才蔵が誰かを刺す場面

▼03分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
本を読みながらぼんやりする家康。
江戸から秀忠が訪ねてくる。

▼05分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
本多正信「大阪では、浪人を抱え込み、武具・兵糧を集め、戦の備えをしている。世間は徳川と豊臣がぶつかるという噂でもちきり」
秀忠「10年間、天下を治めてきたのは、この徳川」
本多正純「今こそ、「徳川が上、豊臣が下」とはっきりさせるべきです。3月の天子様のご譲位にからめて、今度こそ(秀頼に)二条城にご挨拶に来てもらいましょう。大御所さまに跪き、臣下の礼を取ってもらう。従わないときは、力をもって……」
家康「ならん。太閤秀吉は今も多くの者の心の中に生きている。その遺児・秀頼様にヘタな仕打ちをしたら、万民の怒りは我らに向かう」
正信「秀頼さまには、二条城で会っていただく際に上段に座っていただき、しかとあがめ奉る」
秀忠「豊臣を上にするのか!」
正信「徳川は武家の頭領、豊臣は公家、ということにしてしまうのです。公家なら、城だの武器だの、持つべきではありません」
家康「寧々さまに、間に立ってもらおう」

▼10分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
寧々「天子様のご譲位の際、徳川殿が秀頼を招きたいと言っている」
茶々「つまり、天下は返さない、正々堂々と戦もしない、と。頭をなでてやるから出てこい、とな」
加藤清正「盗人は情けない」
寧々「そのような言い方は、控えよ」
千姫「お祖父様と父上が、申し訳ございませぬ」
秀頼「そなたの謝ることではない」
大野治長「出ていけば、何をされるかわからない」
加藤清正「出ていかないと、弱虫だと思われます。この清正、命に代えてお守りいたします」
茶々「そろそろ秀頼を、世にお披露目するかのう」

▼12分 京都
<ナレーション>慶長16年3月28日、豊臣秀頼は大坂城へ移って以来、その姿を初めて民の前に現した。

▼13分 二条城(京都市中京区二条城町541)
家康たちは“秀頼フィーバー”について噂する。「外はすごい騒ぎ。上方の豊臣人気はすさまじい」
そんなところへ秀頼が到着した。
家康「豊臣は関白に任じられる高貴な家柄。武家の頭領である徳川は及びませぬ」と上座に座らせようと思っていたのに、秀頼は下座に座ってしまう。
秀頼「長らくの無沙汰、お詫びします。武家として徳川殿と手を携え、世を支えてまいります」と立派に挨拶をする。

▼19分 江戸城(千代田区千代田1−1)<『ホントに歩く東海道』第1集、『ホントに歩く中山道』第17集>
京都からの文を読んだ秀忠。
秀忠「秀頼殿が父に跪いてくれたそうじゃ! これで徳川が上、豊臣が下とはっきり世に示せてよかった、よかった」
本多正信「えらいことじゃ」

▼19分 京都市中
家康が秀頼を跪かせたことが噂になっている。
行者に身をやつした真田信繁が市中の様子を見て回っている。

▼19分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
本多正純「以前にも増して、大阪には浪人が集まってきています」
阿茶「秀頼さまは、どんな方でしたか?」
家康「涼やかで様子のよい秀吉だ」

▼20分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
千姫は、秀頼に抱かれた猫の絵を描いている。

21分 江戸城(千代田区千代田1−1)<『ホントに歩く東海道』第1集、『ホントに歩く中山道』第17集>
秀忠は、いろいろ思い出して寝られない。「自分は悪くない」と言ったら、「責めを負うのがわしら」と怒られる場面、征夷大将軍に任じられる場面、偉大なる凡庸といわれてしまう場面など。

22分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
慶長17(1612)年。
三浦按針が時計を持ってくる。
家康は按針に「大筒(大砲)を用意してほしい」と頼む。
本多正純「エングランド(イギリス)には、すぐれた大筒があるそうだな」
按針「あれはおそろしいもの……」
家康「あれは、戦を防ぐためのものだ」と抑止力を訴える。

家康がもらった時計を眺めがら関ヶ原の戦いを思い出していると、今川氏真が訪ねてくる。

<ナレーション>氏真は、没落後、家康の庇護の下、妻と悠々自適に過ごす日々でございました」

家康は氏真に愚痴を言う。
氏真「王道の政をし、お前は成長した」
家康「成長していない。平気で人を殺せるようになっただけだ。一つ戦が終わっても、新たな戦を求め、集まる者がいる。戦はなくならず、私は死ぬまで戦を続けている」
氏真「弟よ。弱音はこの兄が全て聞いてやる。おぬしに助けられた命もあることを忘れるな」とハグする。

▼31分 京都 慶長19(1614)年
<ナレーション>二条城の会見以降、秀頼の活躍はめざましく、豊臣の威光を復活させる大事業(方広寺に大仏殿を再興)を進めていた。

31分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀頼「京大仏の復活は、亡き父の悲願だった。その17回忌に開眼供養ができて、父も喜んでいるに違いない」
片桐且元「諸国大名、公家、すべてお招きいたします。むろん徳川様も」

大野治長と茶々が話している。
大野「これからますます輝きを増す旭日の若君と、70歳の老木。時が勝負をつけます。老木さえ朽ち果てれば、凡庸な二代目」

32分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
秀忠「あの京大仏の開眼供養だけは、どうにかしてください。ますます秀頼が輝いてしまう」
本多正信「仏像を作っただけですからなあ」
本多正純「諸国の大名には秀忠さまに従うよう、誓書を取り交わしております」
秀忠「そんなものが、何の役に立つ!」
「御所柿はひとり熟して落ちにけり 木の下にいて拾う秀頼」
という歌が流行っているんですよ。この歌には、私は出てきてもいない。とるに足らない者と思われている。父が死んで、私と秀頼の戦いになったら、私は負けます。負ける自信がある。秀頼は織田と豊臣の血を引く。私は凡庸で、父上の才能も継いでいない。父がいつ死ぬかと思うと、夜も寝られません」
家康「秀忠、そなたはわしの才をよく受け継いでいる。弱いところ、その弱さを素直に認められるところ。私もかつてはそうだった。しかし戦をしていて、それを捨てざるをえなかった。捨てない頃の方が幸せだった。それを大事にせよ。戦を求める者たちに天下を渡すな」

▼38分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀頼と大野治長が槍のスパーリングをして、大野が負ける。
大野「槍と囲碁は、もう叶いません。天下の名将を思わせます」と秀頼を褒め茶々におべんちゃらを言う。
茶々「惜しいのう。ただ柿が落ちるのを待つのが。家康を倒して手に入れてこそ、まことの天下であろう?」
片桐且元「京大仏とともに披露目する鐘について、いくつか案を出してきました」と書類を持ってくる。

▼40分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
鐘のことで騒ぎになっている。
本多正純「国家安康、君臣豊楽。家康の諱を二つに切り分け、豊臣こそが君である、と」
本多正信「江戸から切れ者たちを連れて参りました。臨済宗の高僧金地院崇伝と、儒学者の林羅山。もはや少しずつ力を削ぐという方法はできませんな」
家康「とうとう、戦か」

潤礼紀行45 京都府京都市

寺町 
秀吉が矢田寺や本能寺など、散財していた寺院を集めたことによる名称。

京都寺町
京都寺町。現在は商店街

三条大橋 石の柱を使って作った橋。秀吉時代の擬宝珠が今も使われている。

三条大橋 東海道 京都 擬宝珠
三条大橋 東海道・中山道の起終点

方広寺<「ホントに歩く東海道」新訂第15集 №60 mapB22>
 秀吉はここに日本一の大仏を立てることを夢見ていた。秀頼が大仏を完成させる。秀吉時代の石垣が残る。

元宮二条城(京都市中京区二条通堀川西入二条城町541)
家康が京での活動拠点として建て、家光の時代に完成。
秀頼とこの場所で会見した家康は、「秀頼は賢い人物である」と語ったと伝わる。

方広寺の鐘<「ホントに歩く東海道」新訂第15集 №60 mapB22>
家康・秀頼会見の3年後(慶長19=1614年)に完成した。

方広寺の梵鐘
方広寺の梵鐘
方広寺 梵鐘に刻まれた文字
方広寺 梵鐘に刻まれた文字

(こ)記録

第45回「どうする家康」の舞台関連マップ

『ホントに歩く東海道』新訂 第6集(江尻~藤枝)←駿府
『ホントに歩く東海道』新訂 第15集(南草津~三条大橋)←京都、大和大路
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康45 発展編(by(し)

これまでの大河ドラマでは、秀吉と茶々の子という面しか見えなかった秀頼だが、「浅井長政とお市の孫」でもあるという視点は新しい。秀頼の母、茶々の実父であった浅井長政は、涼やかで義を重んじる、信頼できる人物だった。そこに賭ける家康だったが、結論は「豊臣秀頼=外面は長政+中身は秀吉」。

「方広寺梵鐘」の件、家康や本多正信ら謀略狸軍団がでっちあげた言いがかりにあわてふためく豊臣家臣たち・・・という見慣れた展開ではなく、豊臣のほうからケンカを売り、パブリックイメージ合戦に持ち込むという、今年の大坂の陣前夜は、新しくて面白い。

1.新旧のプリンスたち

「二人のプリンス」とは秀忠と秀頼をさすのだろうが、同時に徳川家康と今川氏真という「元プリンス」二人の対面が大きく扱われていた。この対面シーンは『駿府記』慶長17年4月の項にある氏真の駿河訪問を元にしているらしい。
「子供の頃からそういうことが好きであったなぁ」と、戦よりも物作りに熱中するフィギュアおたく(?)家康の遠き日を氏真が想い出せば、「あの頃のわしを知っているのは今やあなただけじゃ」と家康が返す。

今川義元がバカ殿の評判を脱皮してからも長らく「でも息子の方は本当のバカ殿だった」と言われ続けてきた氏真だが、「おんな城主直虎」で、やや評判を回復(この時に初めて、氏真が野垂れ死せずに高家として寿命を全うしていたことを知った大河ファンも多かったようだ)、今回さらに復権が高まった。「弱音はすべてこの兄が聞いてやる」という氏真の台詞にぐっと来た視聴者も多かったのではないだろうか。

氏真バカ殿説を広めたのは、武田家の陰謀だったという説もある。『氏真、寂たり』(静岡新聞社2019、徳間時代小説文庫2022)作者で「今川氏真はずっと書きたい人物だったが、なかなか機会が訪れなかった」と語る秋山香乃氏は、この説を採っている。この小説の氏真は、世の動きをよく見通せる慧眼の持ち主であるゆえに、少年のころから世の中を悲嘆するようになった人物像として描かれている。

慶長年間の京における氏真夫妻の文化人生活は、山科言経の日記『言経卿記』に記載があるという。藤原北家四条流庶流である山科家の言継・言経父子は、氏真の祖母寿桂尼と姻戚関係にあり、氏真夫妻と交流があった。日記から、氏真が冷泉家の連歌の会に参加したり、古典の借覧や書写などを行っていたことがわかるらしい。

今川氏真夫妻の墓所、杉並区今川2丁目(町名も今川!)の観泉寺は第12回参照

2.もう一人のプリンス、結城秀康と「越後の淀君」

側室の認定を受けずに「お手付き」で産まれたお万の子(第19回参照)で、家康の次男にあたる「於義伊」は、「私の生命についてはご心配なく」と、幼いながらも覚悟を決めて秀吉のもとにおもむく(第33回)。

その後、関東の押えとして結城家に養子に入り結城秀康となる。前回登場した秀康は、将軍職を秀忠に譲るという家康の表明を受け、弟が将軍となることに不満も唱えず臣下の礼を取り、徳川政権を支えようとする、わきまえた人物に描かれていた。しかし将軍職を譲られる秀忠のほうは全く覚悟がない。

「私と秀頼の戦いになったら、私は負けます! 負ける自信がある!」

兄の秀康を結城家から戻し嫡男としなかったのは、その出自のためではなかった。

「才があるからこそ、秀康様を跡取りにはせんのでござる」(本多正信)

「将ひとりの才に頼るような家中は長続きせんということでござる」(榊原康政)

「その点、あなたはすべてが人並み。人並みの者が受け継いでゆけるお家こそが長続きする。偉大なる凡庸というもの」(本多正信)

初回から長々と家康の青春期を弱い主君”白兎”として描いてきたのが、ここでようやく完結する。自分の弱さに悩みながら、強く才のある者が一代を華々しく栄えさせて一代で滅ぶのを、ずっと見続けてきた家康。時には弱さを押し隠し、非情の決断をせざるをえない時もあった。ようやく、弱さ頼りなさを隠さずとも、天下人を継承できる時代を作り上げたのだ。

ドラマでは詳しく描かれなかったが、将軍職こそ弟に譲ったものの、結城秀康は上杉景勝を牽制した功により、関ヶ原の恩賞としては最高の増封高を得て、越前北ノ庄(福井)を与えられ、越前松平家の祖となる。

第19回で取り上げた梓澤要『越前宰相秀康』と共に、もう一冊紹介したい結城秀康主人公の小説『家康の子』(植松三十里 中公文庫2014)には、秀吉対北条の緊張感の高まる関東平野を、徳川の実子かつ関白家の養子である武勇優れた秀康が、美々しい婿入り行列で結城家に向う場面がある。

結城家が豊臣と徳川の後ろ盾を得たことを目の当たりにして、関東各地の北条方の城が、次々と不戦開城。関東東北の押えが結城秀康の存在意義だった。さらに関ヶ原の戦い後は、加賀前田家に対する北陸道の要地の押えとして越前宰相となる。この時、家康には、秀康に播磨を任せて西国大名の押えとする案もあったのだが、「大半が関ヶ原の負け組として減封・移封になった西国大名の傍らにあれば、不満を持つ牢人たちに担がれ、欲しくもない徳川の跡目を狙うとされる危険性がある」と見て北国越前に赴く決意を述べる秀康に、「たいした男に育ったものじゃ、敵にまわしたら怖かったろう」と父家康が感嘆する場面もある。また、秀忠のように一見凡庸であちこちに気を遣う者こそが後継者にふさわしいと語る、今回のドラマと共通するシーンも出てくる。

慶長12年(1607)、秀康は34歳の若さで惜しまれつつ病没するが、その嫡男、松平忠直の代になって、せっかくわきまえた生涯を送った秀康の配慮がだいなしになりかける。菊池寛は『忠直卿行状記』で、権力を持つ故に周囲との人間らしい交流が阻まれ、強烈な自信の反面、底知れぬ不安に悩み乱行に走る青年藩主の姿をわかりやすく描いた。

(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html

松平忠直の妻は、家康の孫娘にあたる勝姫(秀忠・お江の三女)。彼女の視点から越前松平家の悲劇を描いた小説に、中島道子『天下の悪妻 越前藩主松平忠直夫人勝子』(河出書房新社1995)がある。

輿入れ後まもなく重臣どうしの争い(越前騒動)が起き、まだ若年の藩主忠直に代わり家康が処断するが、忠直にはこれで面目を失ったトラウマが生じる。元和6年(1620)、気鬱の病で参勤交代から引き返した忠直に代わり、勝姫の産んだ嫡男だがまだ6歳の仙千代(後の光長)が名代に。その後、度重なる乱行や将軍秀忠との関係悪化により、元和9年に忠直は一伯と名を改め剃髪、豊後萩原に配流される。越前福井藩は改易となって弟たちに分割、藩主が交代する形で、忠直の弟忠昌が与えられていた越後高田に移封となった。

当主が幼いばかりに幕府のいいようにされてしまったという恨みを胸に、勝姫は息子を立派な藩主として育て、いつか越前に復帰したいと決意。“越後の淀君”と呼ばれるようになるが、土地税の免除を発令して「姫様のみやげ」と喜ばれたり、寛文5年(1665)の高田大地震の復興に尽力したりした。

一方、豊後に流された忠直は、人が変ったように明るく穏やかになり、領民にも慕われたが、慶安3年(1650)に配流地で死去する。高田藩主光長は、豊後で忠直の子として生まれた異母弟妹を、勝姫の反対を押し切って引き取るが、これが後の「越後騒動」に繋がり、五代将軍綱吉の時代に越後松平家は取り潰しとなり、光長は伊予松山にお預けとなってしまう。勝姫はすでに泉下の人であったのが不幸中の幸いであろうが、上越高田市には越後騒動の史跡がいろいろ残っており、結城秀康の直系が織りなす、波乱に満ちた物語が面白い。

意外にも、忠直が金沢で洗礼を受けイグナチオの洗礼名を受けていたことや、勝姫の長女(光長の妹)寧子が高松宮に嫁ぎ、その娘明子が後水尾天皇の皇子で後の後西天皇となる良仁親王の妃となった等のエピソードも興味深い。

(写真:上越高田、天崇寺の勝姫と寧子の墓所と説明)

上越高田天崇寺にある勝姫の墓
上越高田天崇寺にある勝姫の墓
勝姫墓説明板
勝姫墓説明板

世田谷区の下北沢にある森厳寺は、「淡島の灸」で有名なお寺で、「ブラタモリ」の舞台になった時、下北沢は若者の街と言われているけれど実はジジババの町だったと話題になった。

https://locatv.com/buratamori-shimokitazawa/#index_id4

しかし、ここの開基が結城秀康であったことは、あまり知られていないのではないだろうか。森厳寺HPには、結城秀康の生涯と共に、寺の由来が説明されている。越前での死去の直前、秀康は自分の位牌所を江戸にも建てることを一乗院住職万世和尚に依頼。万世は弟子の清譽存廓上人に託して慶長13年(1608)に森厳寺を開山し、隣接する北沢八幡の別当寺として、森巖寺一帯は天領となった。天下泰平後に創建された多くの徳川家位牌所の中でも、最も初期に建てられた由緒が森厳寺の誇りであるようだ。昭和初期まで、松平家の子孫が年一回森巖寺を訪れ、葵の紋の入った漆塗りの食器でもてなす恒例があったという。

(写真:森厳寺山門と道標、葵の紋)

森厳寺山門(世田谷区)
森厳寺山門(世田谷区)
森厳寺の道標
森厳寺の道標
森厳寺の葵紋
森厳寺の葵紋

森厳寺HP
https://shinganji.jp/?page_id=8

どこにいる家康 第45回 ギャラリー  京都市豊国廟(2024年6月)