家康の母、於大が死ぬ(慶長7=1602年、75歳)
秀忠の娘、千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ(慶長8年=1603)。
征夷大将軍を息子の秀忠に譲る(慶長10年=1605)。
榊原康政が死ぬ(慶長11=1606年、59歳)。本多忠勝も死ぬ(慶長15=1610年、63歳)。
豊臣秀頼が19歳になる。
舞台は、大阪市、東京、桑名市、京都市。
もくじ ●第44回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(東京都千代田区・中央区) ●第44回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第44回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.去りゆく人々 石田三成、伝通院御大の方、井伊直政 2.本人とは別人の本多忠勝肖像画 3.榊原家のその後と明治の浮世絵師揚州周延 ●ギャラリー(米原市) |
第44回「徳川幕府誕生」▼動静
▼00分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
<ナレーション>慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで西軍を見事打ち破った家康。
<回想>捉えられた三成が家康に「戦なき世などなせぬ。まやかしの夢を語るな」と言うと、家康は「それでも、わしはやらねばならぬ」と言い返した。
関ケ原の戦いの後、家康はそのまま大坂へと進み、豊臣秀頼に戦勝報告をした。
茶々「家康公はそなたの父と思いなさい」
秀頼「はい、いただきます、父上」(家康に酒をついでもらう)
家康「天下の政は、家康が務めるので、よろしくたてまつります」
茶々「毎年あそこに秀頼の背丈を刻んでおります」(部屋の柱を振り返りながら)
片桐且元が、秀頼と秀吉の背丈のしるしを説明する。
茶々「あと10年もすれば秀頼公も太閤殿下に追いつくでしょう。そうすれば太閤殿下が果たせなかった夢を秀頼が果たすこともできましょう。それまで秀頼の『かわりに、かわりに』宜しくたのみます」。茶々は家康に頭を下げる。
秀頼「便りにしておる」
家康・秀忠「ははっ」と頭を下げる。
茶々「時にお孫、秀忠殿の姫君、千姫はいくつになられた?」
秀忠「4歳になりました」
茶々「姫と秀頼の婚儀、太閤の遺言通りにしかと進めましょう。両家が手を取り合うことが何より大事」
秀忠「承知いたしました」
家康と秀忠が去った後、茶々は秀頼に「あの狸、決して信じるでないぞ」と言いふくめる。
家康と秀忠は、大坂城の廊下を歩きながら話している。茶々に「仲良くしよう」と言われて喜んでいる秀忠に家康は、「早く人質をよこせ」と言われているだけだと水を差す。
▼04分 大坂・家康陣屋?
家康は地図を広げ、散り散りになった三河の家臣たちの領地を眺めている。
本多正信「これから豊臣との付き合いが難しくなりますな。いっそ、将軍になるというのはいかがでしょうか?」
家康「将軍?」
正信「足利家が「将軍」の値打ちをだいぶ落としてしまいましたが、殿が幕府を開けばやれることも増えるでしょう」
家康「なるほど、徳川は武家の棟梁。豊臣はあくまで公家。棲み分けられるかもしれないな」
▼05分 伊勢・桑名城(桑名市吉之丸、現九華公園)<「ホントに歩く東海道」第11集 №44 mapB31>
本多忠勝が槍を磨いていたら、誤って指を切ってしまう。
▼06分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」
曲がピアノバージョンに変わった。「どうする家康 メインテーマ ~暁の空~ 4台ピアノVer.」今回だけの仕様らしい。
▼19分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
慶長5,6,7年の柱に刻まれた秀頼の背丈の印を映し、成長している様子を表す。
▼09分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
寧々と於大が話していて、家康が茶をたてている。
於大が、「家康はうさぎ年生まれなのに、寅年ということにしていた」というエピソードを披露する。
家康は、自分は寅年だと思い込んでいたと告白。
慶長7( 1602)年。於大が亡くなる。
於大「都に招いてくれてありがとう。天子様にもお目に通りできるとは夢のよう。もう何も思い残すことはありません」
家康「そんなこと言わずに、長生きをしてください」と薬湯を飲ませる。
於大は「国のために全てをうち捨てろなど、そんなことばかりをそなたに言ってきてすまなかった」と謝る。「もう何も捨てるでないぞ。ひとりぼっちにならぬように」「ああ苦い」と言いながら泣く於大。
<ナレーション>この三ヶ月後、於大は家康に看取られてなくなった。
※於大がお目通りしたのは、後陽成天皇(在位 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉 – 1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉)
▼13分 江戸
<ナレーション>慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に徳川幕府を開いた。戦以外の才能に秀でた者を抜擢していた。若く知恵に優れた若者を大いに登用したことで、太平の世を担う人材が家康のもとへ続々と集まっていた。
ウイリアム・アダムスが家康に南蛮船の図面を見せる。
本多正純は重臣となっていた。「父(正信)に似ず、律儀な男だ」と家康は正純をほめた。
▼14分 伊勢・桑名城(桑名市吉之丸、現九華公園)<「ホントに歩く東海道」第11集 №44 mapB31>
<ナレーション>長く家康を支えた忠臣たちも、戦なき世を謳歌していた。
肖像画を描かせている忠勝のところへ、榊原康政が訪ねてくる。
忠勝「何の用だ?」
康政「桑名はハマグリがうまいと聞いたので、立ち寄った」
忠勝「館林(康政の所領)もよい所だろう。……関ヶ原の褒美が少なかったのが不満なのか?」
康政「まさか。福島殿ら豊臣恩顧の大名に、より多く所領を与えなければならないのは、道理だ」
忠勝「だからこそ、わしは桑名へ移った。西に睨みを利かせるためだ」
康政「しかし、もう我らが働ける世ではない。殿のもとには新たな世を継ぐ者たちが集まってきている。私も秀忠公へのご指南が、最後のご奉公と心得ている。戦に生きた年寄りは、身を引くべきだ」
忠勝「関ヶ原の負傷が元で死んだ直政は、うまくやりおった。そういうことだ」
▼17分 江戸城(東京都千代田区千代田1)
「京橋の普請のことでございりますが……」と報告を受けている家康のところへ、秀忠の娘、千姫が「おじじさま」と抱きついてくる。
江(秀忠嫁)が「これ、お千!」と追いかけてきた。
千姫「千は(豊臣に)参りとうございません。怖いのです」
家康「怖いことがあるか。そなたの母上の姉の家だぞ」
千姫「だから怖いのです。母上がいつも『茶々お姉さまは怖い怖い、何をお考えかわからぬ』と言っています」
江「おホホホ、何を言っているの。母にはもう一人『初』という姉がいて、やさしくしてくれるはずです」
千「私は、おじじ様のそばに居たいのです」
家康「そたなはわしの孫、徳川の姫じゃ。何かあればこのじいが、いつでも駆け付ける」
千姫は、大坂の秀頼に輿入れした。
※京橋(東京都中央区銀座一町目)<「ホントに歩く東海道」第1集 №1 mapA7>家康の時代に築かれたというのを感じられる場面が、感慨深い。
▼19分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
慶長9(1604)年、茶々が家臣たちが集まる前で、柱に秀頼の背丈の印をつけた。
大野治長「健やかにお育ちである。我ら豊臣家中は一つとなって、秀頼様をお支えするぞ」
一同「おおー」
茶々「大野修理、そなたが戻ってきて、心強い限り」
▼20分 江戸城(東京都千代田区千代田1)
家康の部屋を訪ねた秀忠、兄の結城秀康が来ている。
「大坂のお千は大丈夫でしょうか?」と尋ねた秀忠に対して、家康は「真っ先に娘の心配か! 身内のことしか考えぬ主君と思われてしまうぞ。関ヶ原の時から、何も成長しておらぬな」と、叱り飛ばす。
秀忠「あれは私のせいではありません。精一杯急ぎました」
家康「供回りだけで、多くの者を残して来たな」
秀忠「少しでも早く……」
家康「お前は全軍を率いなければならぬのだ」
秀忠「正信も康政もそうしてよいと……」
家康「人のせいにするな! 全てお前のせいだ」
▼22分 江戸城(東京都千代田区千代田1)
書類に目を近づけている本多忠勝に、家康は「お互い年を取ったのう」と声をかける。
忠勝「戦しかできない年寄りはいらないと、はっきり言ってください。ただちに隠居します」
榊原康政が家康に、「最後の諫言を申し上げます。皆の面前であのように秀忠様を叱るべきではない。秀忠様の誇りを傷つけます。しかも関ヶ原のことをいつまでも。あまりにも理不尽。秀忠様は殿から見れば頼りないでしょうが、されど殿とて、あの年代の頃はどれほど頼りなかったか。お忘れあるな」
家康「だが、わしにはそなたたちがいた。左衛門尉(酒井忠次)、石川数正、鳥居のじいさま(忠吉)。みんながわしのことをこっぴどく叱ってくれた。しかし、誰が秀忠をあのように叱ってくれるか。わしは耐えがたい苦しみも味わったが、秀忠にはそれもない」
康政「苦しみを知らぬのは秀忠様のせいではないし、悪いことでもない」
忠勝「これから時をかけて、さまざまなことを学ばれるでしょう」
家康「それでは間に合わない! 関ヶ原はまだ終わっていないのだ。あれは豊臣家中の仲違いの戦だった。それが静まり、再び秀頼様の元へ家臣たちが集まってきている。今年の正月は大いに賑わったようじゃ」
<回想>大坂城。賑やかな声。福島正則が酒飲み大会で優勝し、太刀を秀頼から授かる。
家康「さらに難儀なのは、改易や減封になった家中の浪人がちまたに溢れている。やつらが求める食い扶持は、ただ一つ。戦だ。このまま秀頼様が成長されたら、その時は……」
康政「2つに1つ。おとなしく豊臣に天下を返すか……」
家康「平八郎。隠居など認めぬ。小平太もまだ老いるな。まだおまえたちの力が必要だ」
▼28分 江戸城(東京都千代田区千代田1)
家康は、広間に家臣たちを集めた。
家康「関ヶ原の不始末、誰のせいだ?」
秀忠「私の落ち度にございます」
家康「そうだ。理不尽だろう。この世は理不尽なことだらけだ。しかしわしらのように、上に立つ者は、いくら理不尽でも結果の責めを負わなければならない。うまくいった時は家臣を称え、しくじった時は己が責めを負え。それがわしらの役目だ」
「征夷大将軍を一年以内にそなたに引き継ぐ」と言って出ていく。
秀忠「わしが将軍?」
結城秀康「おめでとうございます」
秀忠「なぜ兄の秀康ではなく、わしが? 兄は正当な妻の子ではないから?」
康政「そんなことをする殿ではない」
正信「秀康様には才があるからでしょう。才があると、一代で国を栄えさせて一代で滅ぶ。我らはいやというほどそれを見てきました」
康政「才ある将一人に頼るような家中は、長続きしないということです」
正信「その点、あなた様は全てが人並み。人並みの方が受け継いでいけるお家こそ、長続きする」
康政「何より秀忠様は於愛様の子だけあって、おおらか。誰とでも仲良くやっていける、豊臣家とも」
正信「関ヶ原でも誰の恨みも買っておりません。間に合わなかったおかげ」
▼32分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々、大野治長に文を見せ、「家康が、こんなものをよこしてきおった」
大野「秀忠殿に征夷大将軍を譲ったということは、天下は徳川家が受け継いでいくということに他ならない。明らかな太閤殿下との掟破り」
茶々「図々しくも、秀頼にも挨拶に参れと言ってきた。むろん、行くなら秀頼を殺して私も死ぬ、と断った」
▼33分 伊勢・桑名城(桑名市吉之丸、現九華公園)<「ホントに歩く東海道」第11集 №44 mapB31>
忠勝は肖像画を描かせている。
康政が尋ねてきた。
忠勝「何の用だ?」
康政「挨拶に回っているだけだ。すぐ帰る」
忠勝「どこが悪い?」
康政「はらわた」
忠勝「まだ老いるなと、言われただろう」
康政に指の傷を気がつかれて、「戦では傷一つ負ったことのないこのわしが、うかつにも」と肩をすくませる忠勝。
康政「老いにはあらがえない。割れたの役目は終わりだ」
忠勝「わしは認めない。殿を守って死ぬのが夢」
二人は槍で取っ組み合った後、「桶狭間後の大樹寺で、家康を主君と認めた」と語り合う。
<字幕>
慶長11(1606)年、榊原康政死去。
慶長14(1609)年、本多忠勝死去。
▼40分 江戸?
阿茶が「評定ですよ」と、家康を呼びにくる。
正信「大坂では浪人を集め、施しをしているとか」
阿茶「徳川が上方から去るやいなや、あからさまに動き出しました」
慶長16(1611)年、秀頼は19歳になった。
潤礼紀行44 東京都千代田区・中央区
徳川幕府の根拠となった江戸を、家康は、京都・大坂と並ぶ大都市につくりあげた。
東京には、家康の町づくりをしのぶ事ができる場所がたくさんある。
●皇居東御苑(東京都千代田区千代田1−1)
・天守台 日本最大の天守があった。
※現在残る土台は、日本最高といわれる高さ45mの江戸城の天守を支えた。天守は、慶長12(1607)年に家康によって築かれた後、3代家光までに何度か移転再築され、明暦3年(1657)の火災で焼け落ちた。翌4年に加賀藩前田家の普請でできた天守台現在のもの。天守台はできたが、保科正之の提言で天守閣の再建はされなかった。
・白鳥壕 家康時代の石垣が残る。
●半蔵門(東京都千代田区千代田1−1)
江戸城の西、周辺には服部半蔵の屋敷や伊賀者の家があった。
●日本橋<「ホントに歩く東海道」第1集 №1 mapA1、「ホントに歩く中山道」第17集 №67 mapB49>
幕府の命で架けられた日本橋。家康は街道を整備し、ここを起点に定めた。
●道路元標<「ホントに歩く東海道」第1集 №1 mapA1、「ホントに歩く中山道」第17集 №67 mapB50>
●銀座発祥の地<「ホントに歩く東海道」第1集 №1 mapA9>
全国のお金の制度を統一するために、江戸に銀貨を作る役所を設けた。銀座の名はこの役所に由来。
●浅草寺(東京都台東区浅草二丁目)
家康が幕府の祈願所に定めた。
水運で栄えた浅草は、川の整備が進み、幕府の米蔵が並ぶようになった。後に蔵前と呼ばれた。
(こ)記録
第44回「どうする家康」の舞台関連マップ
『ホントに歩く東海道』新訂 第11集(岡崎~桑名)←桑名
『ホントに歩く東海道』新訂 第16集(南草津~三条大橋)←伏見
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪
どこにいる家康44 発展編(by(し))
まだ幼い秀頼と千姫の婚儀が進められる。徳川と豊臣の共存だと単純に喜ぶ秀忠、底に潜む茶々の敵意を懸念する家康。「征夷大将軍」は昨年の大河ドラマでも話題になったが、今回は、対豊臣政策の一環として本多正信が提案していた。天下分け目の大戦も終わり、家康は秀忠に将軍職を譲って大御所に。「偉大なる凡庸」こそ将軍の資質――才ある将は一代で国を栄えさせるが、その一代で滅ぶ。斎藤道三、武田信玄、織田信長・・・トップの偉大さに頼る集団は長続きしない。カリスマ依存の危うさは現代にも通じるものか。平八郎・小平太コンビのフィナーレ公演のほか退場メンバーが多い回で、最終回が視野に入ってきた。
1.去りゆく人々
【石田三成】
三成の退場は前回だったが、2000年の大河ドラマ「葵・徳川三代」を始め戦国ドラマでの関ヶ原勝利シーンは、東軍武将たちの居並ぶ中で捕われた三成の悲劇的な姿を際立たせるのが通例だったのに対し、今回は家康と三成の二人だけが対峙する、舞台劇的な演出だった。
滋賀県広報サイトの「三成ゆかりの地めぐり」を一番下までスクロールすると、意外にも彦根の井伊家菩提寺、龍潭寺に三成の供養碑があることがわかる。
https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324455.html
龍潭寺の境内から登山道が整備されていて、佐和山城址へ登ることができるという。龍潭寺は『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.9 mapBから、かなり上にはみ出す位置になるが、佐和山城大手口跡は第40回で紹介したように、マップに記載されている(mapB26)。佐和山城跡は、大手口跡から近江鉄道の線路を挟んで反対側になり、龍潭寺はそれよりさらに北西の位置にある。(第41回ギャラリーに写真多数掲載)
▼常善寺 『ホントに歩く東海道』第14集MapNo.56 mapC29
草津宿交流館の向かいにある常善寺は良弁開基、草津最古の名刹で、国重要文化財の阿弥陀三尊像がある。徳川家康は関ヶ原戦の終了後、ここに宿陣して大津城に向かった。また石田三成が護送される際、この寺にあった松に繋がれ「治部つなぎの松」といわれたという。
【伝通院御大の方】
従来の家康大河で描かれてきたような、戦国の世で幼い我が子と引き離され、政略結婚の道具として使われる悲劇の女性でなく、兎を虎と言いくるめ、置かれた場所に適応してたくましく生き抜く新しいキャラを印象づけた御大の方も、今回で退場。御大のみならず、その姉妹や叔母など、水野家の女性たちの生命力とネットワークがすごいので、一度まとめて調べたいと思う。
御大の方や千姫など、徳川家の女性の墓所として知られる小石川の伝通院は、『ホントに歩く中山道』第17集MapNo.67 mapAの右端にある本郷弥生交差点から、マップを下にはみ出して進み、白山通りを越えた先になる。
伝通院は、御大が夫の久松俊勝の死後に落飾して号した名。息子の天下統一を見届け、慶長7年(1602)8月29日、家康の滞在する伏見城で生涯を終えた。
【井伊直政】
第16回ギャラリーで彦根駅前の井伊直政像が紹介されているが、徳川四天王の中で最年少の井伊直政は、関ヶ原戦での負傷により、先輩の本多忠勝・榊原康政に先立つ。酒井忠次と違い死去のシーンは描かれず、「あいつは早く死んで正解だった」という忠勝・康政の述懐(ナレ死ならぬ会話死?)のみ。
直政の跡を継ぎ、大坂の陣でも活躍した二代目井伊直孝は、招き猫で有名な世田谷の豪徳寺ゆかりの武将としても知られているが、彼は長男ではなく、しかも庶生であった。直政正室(唐梅院、松井松平家の祖である松平康親の娘で、家康養女として直政に嫁いだ)が産んだ直勝という長男がいたにもかかわらず、直孝が家督を継いだのは、直勝が病弱であったからとも言われているが、直勝は、70歳で病没した弟直孝よりさらに長寿を全うした。
本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮新書、2015)によると、井伊家中には、直政が赤備え軍団として鍛え上げた武田旧臣を中心とする新参グループと、井伊谷以来の旧臣グループの対立があり、井伊家が内紛で崩壊するのを怖れた幕府が、井伊谷旧臣を兄直勝に預けて上野安中藩に、赤備え軍団を直孝に預けて彦根藩とし、性質の異なる家臣団の振り分けで井伊家の安泰をはかったとあり、なるほどと納得できた。武功すぐれた赤備え軍団に花を持たせ、彦根よりずっと少ない石高でも旧臣たちをまとめて別家を維持した直勝も、父や弟に劣らぬ出来た人物だったのではないだろうか。
井伊直政は、十代で登場のシーン中心に俳優を選んだと見られ、晩年はちょっと苦しい感じだったが、せっかくの若さを活かして直孝(二役)で登場、一瞬でも大坂の陣で活躍する様子などがあればよかったのにと思う。会話死で終わってしまったのは残念。
▼番場宿の直孝神社 『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.10 mapA8
江北と江南の国境に位置し、湖北最大級の山城だった鎌刃城の山裾にある、静かで趣のある神社。彦根二代藩主、井伊直孝を敬愛した村人たちにより、寛永年間に建立された。
▼安中宿の大泉寺 『ホントに歩く中山道』第13集 MapNo.52 mapB33 写真33 解説p.7
安中藩主となった井伊直勝の母と正室の墓所がある。大泉寺は境内にある「チャンコロリン石」で有名。中山道を夜な夜なチャンコロリン、チャンコロリンと不思議な音を響かせて転がり、住民たちを怖がらせ藩士たちの手にもおえなかった石を、大泉寺の住職が法力により境内に封じ込めたと伝わる。
▼豪徳寺の井伊直孝墓所『ホントに歩く大山街道』(2)MAPあ⑩(mapB別枠)
国許の清凉寺(彦根市)・永源寺(東近江市)と、豪徳寺(東京都世田谷区)の3か所が井伊家の菩提寺。広大な敷地に大型の墓石が整然と並ぶ豪徳寺の墓所は、都内でも屈指の大名墓である。2代直孝や、幕末大河ドラマが放映されると参詣者が増える13代直弼ら6人の藩主、江戸で暮らした正室や側室・子息子女らが埋葬されており、北側の一角には藩士の墓もあって合計で303基にのぼる。「井伊直孝が鷹狩りの帰りに夕立に合い、豪徳寺門前で手招きした猫のおかげで落雷の被害を免れた」という「招き猫伝説」は、明治の廃仏毀釈で荒廃した寺が、生き残りをかけてアピールした作り話という説もあるが、15000体を超える招き猫の並ぶ壮観はSNS時代を迎えて海外にも拡散され、ますます盛り上がっているようだ。
2.本人とは別人の本多忠勝肖像画
本多忠勝と榊原康政のフィナーレ回というのは大々的に予告されていたが、肖像画でこんなに引っ張るとは思わなかった。肖像画を何度も描き変えさせたのは史実らしい。「もはや別人」「絵師もお主を見ずに描いている」という榊原康政のツッコミが笑えた。
本多忠勝の肖像画を検索すると、Wikipediaや桑名市観光サイトを始め、何回も描き直した最終バージョンとしてドラマに登場した「強そうな」画像ばかりが出てくるが、「本郷和人の日本史ナナメ読み」というサイトに載っている束帯姿の本多忠勝像(従五位下中務大輔藤原朝臣忠勝壽像)は、かなり印象が異なる。こちらの方が実物に近いのか。
https://www.sankei.com/article/20150720-5FIQHYNKFZKY7CZ3SC37WNSPJA/
強そうな忠勝(黒)と束帯姿のおとなしい?忠勝(赤)
▼桑名城址『ホントに歩く東海道』第11集 MapNo.44 mapB31、33
第5回に紹介したが、桑名城址の九華公園に本多忠勝像がある。
本多忠勝の墓は桑名と千葉、2箇所にある。家康の関東移封に伴い、最初に城主となった上総大多喜(現・千葉県夷隅郡大多喜町)の良玄寺に、大多喜城で亡くなった忠勝夫人、大坂夏の陣で戦死した次男忠朝と並んだ墓所がある。
https://www.kankouotaki.com/jokamachi.html (ページの一番下)
もう一つは、桑名城址九華公園と六華苑・諸戸庭園とに挟まれた寺町の中にある浄土寺。
https://www.city.kuwana.lg.jp/kanko/miru/history/history009.html
関ヶ原の戦の後、忠勝は大多喜城から桑名藩に移り、次男忠朝が大多喜城の二代目城主となった。桑名で病死した忠勝は浄土寺で火葬され、大多喜の良玄寺に分骨された。
3.榊原家のその後と明治の浮世絵師揚州周延
榊原康政、幼名小平太は、天文17年(1548)、三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に、上野城を預かる酒井忠尚の家臣、榊原長政の次男として生まれた。上郷区民会館駐車場に、榊原康政生誕之地碑がある。
https://www.tourismtoyota.jp/spots/detail/2175/
ドラマの中で自分のことを「良からぬ出自」と述べていたのは、代々の徳川重臣の嫡男である酒井忠次や本多忠勝、もとは一国の主であった井伊家若殿の直政に比べて、家臣の家臣、それも次男ということだと思われる。しかし文武に優れた資質を買われた小平太は、家康の旗本先手役に抜擢されて諱に「康」を与えられ、同年齢の本多忠勝と共に、常に家康の傍らで活躍、とくに小牧長久手の戦いでは大きな功績をあげた。そのように長く家康を身近で見てきただけに、秀忠の遅参を家臣たちの前で叱るのは良くない、「殿もあの年頃は、どれほど頼りなかったかお忘れあるな!」と、家臣一同も視聴者全員も納得の諫言ができたのだろう。
本多忠勝の桑名に比べるとちょっと地味だが、群馬県館林でも「榊原康政公ゆかりの館林まちあるきマップ」を配布するなど、アピールしている。康政は、館林の台地に城下町を整備し、周囲の低湿地を開発して治水・利水事業を進めた。館林には、第41回発展編の狸特集で紹介した、分福茶釜の茂林寺もある。
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s002/shisei/150/160/020/010/230427_04.pdf
榊原家菩提寺、館林の善導寺に墓所がある。
https://sato-numa.jp/access/19/
ドラマでは四天王のうち一人だけ、家族が誰も登場しなかった榊原康政であるが、長男である兄、清政について、静岡県牧之原市大澤寺のブログに書かれており興味深い。
なぜ榊原康政が、兄の清政を差し置いて家督を継いだのかという理由については、兄病弱説のほか、清政は二俣城で切腹した家康の長男信康の傅役だったが信康を守れなかった後悔で自ら隠居したという説もあるようだ。家康は清政のことも気にかけており、大御所としての居城、駿府城の詰めの城である久能城(後の久能山東照宮)の城代を清政に命じ、以降この家系が交代寄合表御礼衆榊原家として、代々久能山の管理を任された。
▼江浄寺 『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.21 mapA6 写真6
解説に松平信康の墓所のある寺として記載されているが、榊原清政がここに信康の遺髪を納める五輪塔を建立した。第24回発展編で紹介した、穴山梅雪ゆかりの江尻城跡・サッカーボールの魚町稲荷などの近くである。
館林のあと、榊原家は、陸奥白河藩(福島県白河市)⇒播磨姫路藩(兵庫県姫路市)⇒越後村上藩(新潟県村上市)⇒再び姫路⇒越後高田藩(新潟県上越市)と、あちこちに転封され、越後高田で明治維新を迎えた。
最後の藩主、榊原政敬は、新政府に対しては徳川家改易を免除するよう嘆願する一方、徳川慶喜に対しては政府に謝罪すべきことを諫言する「哀訴諫諍」の立場を取っていたが、最終的に官軍に与して戊辰戦争では長岡藩や会津藩と戦った。しかし江戸詰めの藩士たちは、あくまでも官軍に抵抗しようとする者も多く、脱藩して神木隊(榊原の「榊」から命名したといわれる)という反政府組織を結成し、上野の彰義隊や榎本武揚軍に参加した。この中に、天保9年(1838)に高田藩江戸屋敷の徒目付の家に生まれ絵師の修業をしていた橋本作太郎、後の楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)がいた。
楊洲周延の作品中、榊原康政を始め徳川家臣の活躍を描いたものが見られるのは、明治になっても周延が主家との絆を大事にしていた故だろうか。第18回発展編でも紹介したが、三方原の犀ヶ崖資料館には、揚州周延の「味方ヶ原合戦之図」がある。描かれているのは本多忠勝・内藤信成・山県昌景で、厳密には三方原戦ではなく前哨戦の一言坂の戦いではないかと思われるが、徳川に思い入れのある楊洲周延は、家康サイドが活躍したシーンを描きたかったのかもしれない。また、「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」では、馬上で長槍をあやつる勇猛な榊原康政が中央に大きく描かれている。
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0005790/
https://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2023-539
「味方ヶ原合戦之図」「小牧山二康政秀吉ヲ追フ」は、2023年秋、町田市立国際版画美術館で開催された「明治を描き尽くした浮世絵師・楊洲周延」という企画展でも展示された。
官軍との戦いで負傷した楊洲周延は、高田藩預かりとなって処分を受けるが、その後東京に戻り、浮世絵師としての仕事に励み、武者絵や西南戦争の絵を描いて評判を取る。明治も後半になると、若い江戸っ子たちは知らない江戸城の様子を豪華な錦絵で発行、特に「千代田の大奥」は大人気を博した。美人画・子供絵・歴史画・師匠豊原国周の流れをくむ役者絵・挿絵など、幅広いジャンルで活躍し、大正元年に死去するまで、明治の浮世絵師として屈指の存在であり続けた。
どこにいる家康 第44回 ギャラリー 米原市(2018年4月)
番場宿と醒井宿の間の中山道。直孝神社の写真を探していたらいい場所だなと思いました。