3万の兵を預かった秀忠がこないまま、関ケ原の決戦を迎える。
家康は各地で調略を進め、思いのほか短時間で勝敗は決した。
お勝山、笹尾山、桃配山、松尾山、天満山……『ホントに歩く中山道』がこんなに舞台にどんぴしゃに出てくるなんて嬉しいです。
舞台は、大阪市、京都市、大垣市、関ケ原町、垂井町。
もくじ ●第43回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(関ヶ原) ●第43回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第43回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.歴史の町、大垣 2.街まるごと古戦場の関ヶ原 3.小早川秀秋だけではなかった関ヶ原の「寝返り」メンバー ●ギャラリー(関ヶ原) |
第43回「関ヶ原の戦い」▼動静
▼00分 回想
桶狭間の戦い(永禄3=1560年)、三方原の戦い(元亀3=1572年)、長篠の戦い(天正3=1575年)、小牧長久手の戦い(元正12=1584年)
<ナレーション>慶長5(1600)年9月14日、一里の距離を置いて、にらみ合う家康と三成。天下分け目の関ヶ原、ついに決戦の時でございます。
▼01分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」
▼04分 大阪城
慶長5(1600)年9月14日
豊臣秀頼「余は、出陣しなくてよいのか?」と尋ねる。
毛利輝元「私がしかと見極めます」と答えると、
茶々「機を見誤るなよ」と輝元をにらむ。
▼05分 京都・新城(京都市上京区・京都御所内)
阿茶「私をかくまって、ご迷惑になりませんか?」
北政所「所詮、この戦は豊臣家中のケンカ。豊臣と徳川が一つになって、天下を治めるのがよい」
※京都新城
慶長2(1597)年、豊臣秀吉は、京都御所の近くに広大な邸宅を息子秀頼のために建造した。
しかし秀吉は、築城1年後に伏見城で死亡。その後、京都新城には、北政所(高台院)が住んだ。
その跡には、後水尾上皇のために、「京都仙洞御所」がつくられた。
▼06分 美濃赤坂・徳川本陣(お勝山=岡山、安楽寺、岐阜県大垣市赤坂町)<「ホントに歩く中山道」第4集 №13 mapA40>
秀忠の到着を待っている家康。
※お勝山=岡山本陣跡
壬申の乱(672年)の際、大海人皇子がここ岡山に兵を集めて戦勝を祈願し、勝利した。この故事にならって、家康も関ヶ原の戦いの時に岡山に陣を張り、安楽寺に本陣を置いた。翌日、関ヶ原の戦いに勝利したので、以後、「勝山」と呼ばれるようになった。
▼06分 どこか中山道の道中
秀忠は馬を急がせている。
<ナレ>徳川本軍3万の兵を預かった秀忠公は、三成の策略にはまり、信濃・上田で足止めを食らっていた。
▼07分 美濃赤坂・徳川本陣(お勝山=岡山、安楽寺、岐阜県大垣市赤坂町)<「ホントに歩く中山道」第4集 №13 mapA40>
本多忠勝「本軍(秀忠)が到着する前に、毛利が秀頼様を戴いて、三成に合流されてしまったら、我らは危うい」
黒田長政「吉川広家を通じて毛利に調略を繰り返しているが、ふたを開けてみないと(わからない)」
家康「何枚も小早川秀秋に文を書け。各陣書にその手紙をばらまいて、小早川は家康に内応していると言いふらせ」と井伊直政に命じた。
直政は、文を書く。
▼08分 大垣<「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №2 mapA 25大垣城>
宇喜多秀家は、家康がばらまいた文を見ながら毛利輝元に、「小早川はいつ来るのか? 家康側についているとの噂が流れている」と詰め寄る。
毛利「小早川は、こちらにつくことは間違いないと言っています」
三成「秀頼様と毛利勢3万がこちらにつけば、誰も寝返ることはできません。いずれにせよ、我が軍は10万。どうする家康!」
▼08分 美濃赤坂・徳川本陣(お勝山=岡山、安楽寺、岐阜県大垣市赤坂町)<「ホントに歩く中山道」第4集 №13 mapA40>
家康「秀忠の3万の本軍到着は諦める。大垣城は放っておく。関ヶ原には大谷がいるだけだ。我らが動けば、三成たちも動くだろう」
誰か「なるほど。野戦に持ち込めますね」
直政「されど、大坂や小早川の軍勢が三成につけば、後ろを塞がれ、我らは袋の鼠」
家康「それが三成の狙いだ。だが、大軍は思い通りには動かない」
雨が降ってくる。
家康「この空模様、大高城の兵糧入れを思い出すのう」(➡どこにいる家康 第1回「どうする桶狭間」)
家康軍は、関ヶ原へ出陣した。
▼10分 大垣<「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №2 mapA 25大垣城>
徳川軍が西へと軍を進めているという情報が入り、三成と島左近は、にんまりとする。
三成「(家康が)食いついた!」
兵「申し上げます。小早川勢、松尾山に布陣したとのこと」
宇喜多「松尾山?! 最後まで見極めるつもりでしょう」
三成「大谷刑部に、小早川から目を離すなと伝えよ」
三成たちも、関ヶ原へ向かう。
▼11分 関ヶ原(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB>
慶長5(1600)年9月15日
<ナレーション>両陣営合わせて15万の兵が対峙した関ヶ原。一夜明けると雨は上がり、深い霧に包まれておりました。
家康が布陣したのは小さな丘「桃配山」。そこを守るのは徳川最強の本多忠勝。
前線の平野には、徳川の赤鬼こと井伊直政らに加え、福島正則、藤堂高虎、黒田長政などの猛者たち。
それを迎え撃つは、
笹尾山に石田三成。
脇に島津義弘、天満山には小西行長と五大老の宇喜多秀家、
その南の中山道筋に大谷刑部、松尾山には小早川秀秋、
南宮山には、毛利率いる吉川広家、長宗我部盛親、長束正家の毛利勢。
家康軍を取り囲む布陣に成功していました。
▼13分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
三成「形の上では我らが勝ちと言いたいが。小早川……」
嶋「秀頼様と毛利本軍が到着すれば、勝利は見えてくるかと」
▼14分 桃配山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №32家康最初の陣地>
本多忠勝「見事に(三成らに)囲まれましたな」
家康「だが、不思議と気分は悪くない」
忠勝・直政「我らは殿と共に戦う事が好き♥」
霧が晴れてきた。
家康は、井伊直政に先陣をまかせた。
▼17分 天満山付近(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №18関ヶ原古戦場開戦地>
井伊直政勢は、先陣を切った。
その銃声を聞いた福島正則は、直政の抜け駆けを怒った。戦いが始まった。
<ナレーション>地の利を活かした三成勢が優位に立ち、戦いは三成の思惑通りに進んだ。
▼19分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
三成「小早川殿は、動かないな〜」
▼19分 松尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №6松尾山眺望地から南へ1.5㎞>
兵「我らは家康についたと噂されているようです」
小早川「気にするな、戦の成りゆきを見極めている。今のところ家康と三成は五分五分」
▼19分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
嶋「吉川が小早川の後ろにつけば、動かざるをえないでしょう」
▼19分 桃配山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №32家康最初の陣地>
渡辺「殿、吉川や毛利勢が背後を突いてきたら、どうしますか?」
家康「おしまいよ。だが毛利は、吉川や家臣はおろか、小早川もまとめ切れておらぬ」
▼20分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
兵「吉川殿が動きません」
嶋「何をしておるのか!」
兵「腹ごしらえをしているとか」
▼20分 南宮山(岐阜県垂井町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapC №51南宮大社鳥居から約1㎞南西>
吉川「ゆっくり食えよ〜」と、兵たちに声をかける。
兵「長宗我部様が、早く出ろと申しております」
吉川「腹が減っては戦ができぬと言っておけ」
▼20分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
兵「吉川様が動かぬゆえ、その後ろに陣取る長宗我部様も動けぬご様子」
三成「……」
▼20分 南宮山・毛利の陣(岐阜県垂井町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapC №51南宮大社鳥居から約2.5㎞南西>
兵「吉川殿が、家康と結んでおります。その上、小早川殿も家康と結んでいるとの噂」
毛利「うーん」
▼21分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
茶々「なぜ毛利は動かぬのか! ただちに秀頼を出陣させよ」
家臣「お客様です」
北政所の使いとして、阿茶が茶々を訪ねると、片桐且元が対応した。
阿茶「秀頼様は、この戦にかかわらない方がよいかと。徳川の調略はかなり進み、すでに勝負が決する頃合いかと。毛利が出陣しないのがその証。秀頼様の身を徳川にお預けください」
茶々は怒って「身の程をわきまえよ! 二度とお見えにならぬがよい」と阿茶に言う。
▼24分 桃配山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №32家康最初の陣地>
兵「小早川が動きません」
家康「吉川は?」
兵「動いてません」
家康「我らは前へ出る。一気に勝負をかける」
<ナレーション>ここが勝負と見た家康は、2万の兵力を三成の目と鼻の先へ押し出した。
▼25分 笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
嶋「なんというやつだ。家康が目の前に出てきた」
三成「面白い。総掛かりで家康の首をとれ!」
▼26分 決戦地(岐阜県関ケ原町陣場野公園)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡笹尾山のすぐ下(直線距離にて約800m)>
忠勝「総大将がど真ん中に出てきて、敵は怯み、味方の志気は上がっている」
家康「小早川、決断の時ぞ」と松尾山の方を見る。
▼26分 松尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №6松尾山眺望地から南へ1.5㎞>
小早川秀秋は、決断する。「目指す敵は大谷刑部」と言うと、軍勢は山をかけおりた。
▼27分 大谷吉継陣(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapA №6松尾山眺望地から北へ100m>
兵「小早川勢が、こちらに攻めかかってきます」
大谷「何?!」
大谷らは戦って、敗北した。
▼28分 決戦地(岐阜県関ケ原町陣場野公園)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡笹尾山のすぐ下(直線距離にて約800m)>
戦いのシーン。西軍は、逃げ出す。
家康の周りに集まる家臣たち。
兵「島津がこちらに向かってきています」
家康「放っておけ、走り去ろうとしているだけだ」
兵「井伊直政勢が、これらを討ち取らんとしています」
▼31分 直政が撃たれた場所(岐阜県関ケ原町)No.22 直政・忠吉陣跡付近か?
島津を追撃していた井伊直政は、撃たれる。
▼31分 京都・新城(京都市上京区・京都御所内)
阿茶が大坂から戻る。
北政所は阿茶に、「勝負が決したようだ」と告げる。
▼32分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
関ヶ原での西軍の敗北を聞いて、
毛利「三成がしくじりおったのじゃ〜」と非難すると、
茶々は毛利を平手打ちにする。「そなたを頼った私の過ち。去れ」
<ナレーション>関ヶ原の戦い後の対処。
毛利輝元=大阪退去、減封
宇喜多秀家=改易 配流
上杉景勝=減封の上、移封
真田昌幸=高野山配流ののち、紀伊九度山に蟄居
小西行長=京・六条河原にて斬首
大谷=自害
嶋左近=行方知れず
石田三成=敗走
▼33分 決戦地?(岐阜県関ケ原町陣場野公園)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡笹尾山のすぐ下(直線距離にて約800m)>
負傷した直政を手当する家康。
直政「殿、ついに天下をとりましたな」
家康「ああ」
▼35分 近江・大津城<「ホントに歩く東海道」新訂 第15集 №58 mapC №22 浜大津駅の北100m>
慶長5(1600)年9月22日
捕まった石田三成はしばられて、家康の前に連行される。
家康が三成に「戦なき世に出会いたかった」と言うと、
三成「私の豊臣への忠誠は、みじんも揺るがない」
家康「なぜ無益な戦を起こした。死人は8000人を超える。何がそなたを変えたのか」
三成「私は何も変わっていない。誰の心にもある戦乱を求むる火種に火がついた。この戦を引き起こしたのは、私であり、あなただ。戦なき世などなせぬ。まやかしの夢を語るな」
家康「それでも、わしはやらねばならぬ」
石田三成は、六条河原で斬首された。<『ホントに歩く東海道』新訂第15集№60mapB 五条大橋と正面橋の間の鴨川>
潤礼紀行43 関ケ原町
関ヶ原の戦いは、北天満山周辺で始まった。井伊隊が宇喜多隊に発砲し、戦いの火蓋が切られた。
●桃配山 (岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №32家康最初の陣地>
家康が布陣。
●笹尾山(岐阜県関ケ原町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡>
石田三成の陣跡。
●徳川家康陣跡(岐阜県関ケ原町陣場野公園)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №19石田三成陣跡笹尾山のすぐ下(直線距離にて約800m)>
床几場では、首実検が行われた。
●若宮八幡宮(岐阜県関ケ原町陣場野公園)<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapA/B №10藤下橋西側の社標から300m南西>弘文天皇を祀る神社。家康は、戦火で焼かれた自社の復興をした。
家康は、関ヶ原の戦いで戦死した兵を二か所に埋葬した。
●東首塚<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №21東首塚>
●西首塚<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB №20東首塚>
●関ヶ原古戦場記念館<「ホントに歩く中山道」第3集 №12 mapB 歴史民俗資料館南、「老人福祉センター」の場所>
関ケ原の戦いの全容がわかる最新技術を結集した体験型の施設。2020年開館。
(こ)記録
第43回「どうする家康」の舞台関連マップ
『ホントに歩く東海道』新訂 第15集(南草津~三条大橋)←大津・京都
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪
『ホントに歩く中山道』第3集(高宮~垂井)←関ヶ原・垂井
『ホントに歩く中山道』第4集(垂井~新加納)←美濃・赤坂、岐阜城
『ホントに歩く東海道』別冊美濃路(垂井~宮)←大垣
どこにいる家康43 発展編(by(し))
関ヶ原といえば有名な秀忠の「大遅参」、これによる“凡庸な二代目”イメージが長くついて回った。しかし、本多正信・榊原康政という、德川軍団きっての頭脳派が秀忠と行動を共にしており、秀忠も長老の意見を無視して暴走するタイプではないし、これは失策というよりも、さまざまな要因が重なった不運ではないのかと常々疑問に思っていたが、今回それに近い描き方で納得がいった。最初は「真田封じ込め」がメインのミッションだったのに、状況が変化して「徳川抜きで勝利されては水の泡!」「とにかく早く合流しろ!」となり、その密書が奪われる(真田の忍びに?)事故や、さらには天候も最悪の状態に。しかし実態の認識は内輪にとどめ、対外的には二代目の失策として処理せざるをえなかった。この時の痛恨が、正確で迅速な情報伝達こそ政権安定の要と、五街道整備を家康が急いだ要因の一つになったのだろうか。
1.歴史の町、大垣
大垣は、中山道の垂井と東海道の宮を結ぶ美濃路の宿場であるが、小田原や浜松・大津などと同様、街全体に史跡が満載で、街道とは少し離れた寄り道にも時間を割きたい所である。大垣観光協会作成の「城下町大垣観光マップ」は、コンパクトながら詳しく情報が詰まっているが、一番の売りは「奥の細道むすびの地」、次が「大垣城」のようだ。大垣城は、関ヶ原西軍の拠点の城と、徳川政権下における戸田氏の城、という二つの顔を持っている。
(大垣城については、第31回「史上最大の決戦」発展編3「池田恒興と美濃大垣」参照)
【杭瀬川の戦い】
壬申の乱で矢傷を受けた大海人皇子が、川の水で洗い治癒したことから「苦医瀬川」と名付けられたという伝承のある杭瀬(くいせ)川は、不破郡と安八郡の境をなす木曽川水系の河川。ドラマには出て来なかったが、関ヶ原戦の前日に勃発し唯一西軍が勝利した戦いの舞台として知られている。慶長5年(1600)8月10日、石田三成が大垣城に入城し、西軍の本拠地としたのに対し、家康は9月1日江戸城を出発、13日に岐阜に着き、美濃赤坂の安楽寺を本陣とした。家康到着の知らせが大垣城に入ると、三成軍の士卒が動揺、逃亡兵も出始めたので、三成の右腕、島左近は、西軍の士気を回復するための一計を案じ、大垣城と美濃赤坂の間を流れる杭瀬川へ向かい、池尻口から川を渡った。東軍の中村一栄(一氏の弟)や野一色頼母が挑発に乗って西軍を攻撃すると、左近は敗れたふりをして逃走、追撃を誘う。そこに前もって隠しておいた伏兵が現れ、引き返した左近の本隊と挟み撃ちにされ、さらに西軍の宇喜多秀家配下、明石全登も参戦して、東軍は武将30余人・雑兵百数十が討死をとげた。三成らは大垣城下の遮那院門前で首実検を行い、士気を回復した西軍は関ヶ原に進軍した。家康は東軍本陣から一部始終を望見しており「大事の前、かかる小戦で兵を損じるとは何事ぞ」と怒りを示したという。
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4331
▼美濃赤坂 安楽寺 『ホントに歩く中山道』第4集 MapNo.13 mapA39
創建は聖徳太子。壬申の乱の時、大海人皇子がこの地に兵を集めて戦勝祈願、勝利した故事にならい、家康もここを本陣とし、翌日、関ヶ原の桃配山に出陣した。関ヶ原勝利により安楽寺も德川家の三ツ葉葵の紋を許された。
▼兜塚 同 MapNo.13 mapA25 写真25
杭瀬川の戦いで討死した東軍の武将、野一色頼母(のいっしき・たのも)の首と鎧兜を埋めた場所と伝わる。
▼杭瀬川 『ホントに歩く中山道』第4集 MapNo.13 mapB45「杭瀬川の蛍」の石碑が土手に建つ。
杭瀬川の戦いの場所は、川筋の変化のため明確に特定されてはいないが、当時の杭瀬川の周辺には森林が生い茂っており、島左近はこの中に一隊を伏せて東軍の目を欺いたといわれる。杭瀬川の下流の土手に沿う道は谷汲山へ通じる巡礼街道で、美濃路が川を渡る西岸に谷汲山常夜燈がある(『ホントに歩く東海道 別冊美濃路』MapNo.1 mapB41 写真41)。
▼高札場・首実検橋 『ホントに歩く東海道 別冊 美濃路』MapNo.2 mapA23
大垣駅の南、美濃路がクランク状に曲がりながら進む一画にある高札場跡の近くで、石田三成が杭瀬川で討ち取った東軍の兵将の首実検を行い、近くの橋は首実検橋と呼ばれていたという。
【おあむの松】
正徳年間(18世紀初期)に書かれた『おあむ物語』という、老尼が語る関ヶ原体験記がある(『日本庶民生活史料集成』第8巻、三一書房1969)。表題の「おあむ=(おあん、お庵)」は老尼の敬称で、彼女の本名や生没年は不詳だが、石田三成の配下で大垣城の守備を務めた山田去暦の娘とされ、少女時代に体験した関ヶ原の戦いの頃の様子を子供たちに語ったのを記録したもの。戦国時代の武家の暮らしを女性の立場から描写した貴重な史料とされる。少女のおあむも、母や城内の女性たちと鉄砲の弾を作ったり、味方が討ち取った敵将の首に札を付けて天守に並べ鉄漿(お歯黒)を付けるなどの作業に従事し「其の首共の血くさい中に寝たことでおじゃった」。西軍が敗北し、おあむは父母や家来と共に命がけで城を脱出。その後、父と共に親族を頼って土佐に渡り、山内氏に仕えていた近江出身の雨森儀右衛門に嫁いで80歳余の生涯を終えた。
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/36.html
おあむたちが城を逃れたのは、おあむの父、山田去暦が家康の恩師にあたり「去暦事は家康様御手習の御師匠申されたわけのある物じや程に城をのがれたくば御たすけ在るべし」との矢文が来たためで、おあむ達は天守の西側にあった松の木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、たらいに乗って辛くも脱出したと言われる。しかし註解によれば山田去暦は秀吉の甥、秀次の兵術師範を務めたことはあるが、家康の師匠であったという記録はないとあり、年齢的にも合わないように思える。家康の手習い師匠だったのは、山田去暦の父(おあむの祖父)という説もあるようだが、いずれにせよ関ヶ原の戦いの時は還暦近かった家康が、よく幼少時の手習い師匠の事を覚えていたものだし、師匠の家族が現在大垣城にいるということを知った経緯も謎である。
▼おあむの松 『ホントに歩く東海道 別冊 美濃路』Map No.2 mapA25
大垣城の天守西に、おあむ達が伝って逃れたと言い伝えられた樹齢300年ほどの大松があったが、第二次世界大戦の直前に枯れたために植え継がれ、昭和44年(1969)7月10日に二代目「おあむの松」の命名式が催された。大垣では毎年4月に物語を元にしたイベント「水の都おおがきたらい舟」が開催され、おあむをヒロインとした中村航作の大垣市オリジナルアニメもある。
https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_3343.html
https://www.ogakikanko.jp/oamu/
【大垣と大柿】
柿は美濃の名産の一つで、大垣は「大柿」に通じるため、家康と柿にまつわる逸話がいろいろある。美濃に進軍して来た家康に、地元の農民らが大きな柿を献上し、家康は「われ戦わずして大柿(=大垣)を得たり」と全軍を鼓舞した。また、岐阜市の立政寺にも、家康が立ち寄った時に、住職が大盆に大きな柿を載せて供しようとして柿が転げ落ち、「大垣城が落ちた」と喜んだという話が伝わっている(寺には、この時の大盆が保存されている)。
http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20180529241340001.html
立政寺は、室町幕府最後の将軍足利義昭に織田信長が面会した寺として有名で、大河ドラマでも「麒麟がくる」を始め何度かこの対面シーンがあったと記憶しているが、家康は登場しないので、今回のドラマでは省略されていた。時期的には第11回くらいだろうか、家康は松平から德川に改姓したり今川氏真と決着をつけたり信玄の駿河侵攻に備えたりに忙しく、足利将軍に関わっている暇はなかっただろう。関ヶ原の戦いを前に立政寺を訪れた家康に、住職たちは30余年前の足利義昭・信長の対面について語っただろうか。
▼柿羊羹 『ホントに歩く東海道 別冊美濃路』MapNo.2 mapA16 写真16
干し柿をジャムのようにすりつぶし砂糖と寒天を混ぜて竹の器に流し込んだ「柿羊羹」で有名な「つちや(槌谷)」は、店の建物が大垣市景観遺産に指定されている。
▼立政寺 『ホントに歩く中山道』第4集 MapNo.15 mapC14
2.街まるごと古戦場の関ヶ原
これまでの「どこにいる家康・発展編」は、ドラマのどこかに東海道・中山道はもとより、大山街道や、まだマップが出ていない甲州街道や日光街道にでも、わずかでも関連する場所がないかと鵜の目鷹の目で探し、無理やりマップと結びつける作業だったが、今回の「関ヶ原」に関しては、『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo12 に関連史跡がてんこ盛りで、一つ一つ紹介しきれない嬉しい悲鳴である。2020年にオープンした立派な「岐阜関ヶ原古戦場記念館」(https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/)は、事前の予習や、一巡りした後の休息、お土産探しにも最適。町内の各所で古戦場巡りマップが入手できるので、2日くらいかけてじっくりと巡るもよし、「推し」の武将を追いかけて感慨にひたるもよし、さまざまな楽しみ方ができる。自転車で効率的に回るのも良いアイデアだが、平地でほぼ街道沿いに並ぶ東軍陣地めぐりには自転車が便利な一方、西軍陣地はそれぞれ小高い所にあり、そのたび麓に自転車を停めて登ってから戻って来なければならず、山を越えて次の陣地へ移動するルート(例えば、大谷吉継陣跡から墓所を経て、藤古川ダム湖を渡り、宇喜多秀家・小西行長・島津義弘陣跡を通って笹尾山石田三成陣跡へ、あるいは中山道に戻り東軍陣地をたどるコースなど)は自転車では行けないので要注意である。
また、関ヶ原町作成の資料には、隣の垂井町にある陣跡は触れられていないので要注意。垂井一里塚と同居している浅野幸長の陣跡は、街道ウォーカーなら逃さないだろうが、街道から少しはずれた池田輝政の陣(第32回発展編2「池田恒興・輝政親子」参照)も、時間があればぜひ訪れてみてほしい。
▼関ヶ原古戦場『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo12 MapA MapB MapC
『ホントに歩く中山道』第3集 コラム12「関ヶ原。このまち、まるごと、古戦場。」
▼家康の天下腰掛石 『ホントに歩く中山道』第3集 Map No.11 MapC39 写真39
西から近江・美濃国境を経て関ヶ原に入る手前、今須宿の伊藤本陣跡から北へそれて国道・東海道線路をくぐった所にある青坂山妙応寺は、14世紀半ばに今須の領主が創建した寺だが、ここに家康が腰掛けた「天下腰掛石」が安置されている。関ヶ原の勝利後、石田一族がこもる佐和山城を攻める途中に家康が伊藤本陣に立ち寄り休息した時に腰掛けた石と伝わり、この石に腰掛けて「運・鈍・根」と唱えると幸運が訪れるらしい。この一帯、家康が立ち寄った所は数え切れないだろうが、現在に至るまで伝え続けたこの寺の根性に頭が下がる。
関ヶ原が舞台となった歴史上重要な戦いは、家康と三成の天下分け目戦だけではない。この地は古代より不破関(ふわのせき)といわれ、越前の愛発(あらち)関(福井県敦賀市)・伊勢の鈴鹿関(三重県亀山市)と並ぶ三大関所で、これらの関をつなぐ防衛ラインの東側が、反乱分子のうごめく未開の地「関東」であった(『壬申の乱と関ヶ原の戦い』本郷和人、祥伝社新書2018)。
7世紀後半に大海人皇子と甥の大友皇子が戦った壬申の乱、南北朝時代に北朝を擁する足利幕府軍と南朝の北畠顕家軍が戦った青野ヶ原の戦いも、この地が舞台だった。家康を始めとする東軍陣地と、大谷吉継や宇喜多秀家などの西軍陣地との、ちょうど中間あたりに不破関跡があり、関ヶ原町立不破関資料館では、関所復元模型やさまざまな関所施設の解説を見ながら古代の関について学ぶことができる。
https://rekimin-sekigahara.jp/main/fuwa_no_seki/museum/
▼不破関資料館『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.12 mapA12 写真12
不破関跡周辺には、大海人皇子(後の天武天皇)・大友皇子両軍の兵士たちが流した血で染まったといわれる黒血川(mapA5)、敗れた大友皇子が自害し首が葬られたと伝わる自害峰の三本杉(mapA8)、兵士たちが水を求めて矢尻で堀った池という矢尻の池(mapA9)、大海人皇子が兜と沓をとって休んだといわれる兜掛石・沓脱石(mapA13)など、壬申の乱に関する史跡が集まっている。
3.小早川秀秋だけではなかった関ヶ原の「寝返り」メンバー
小早川秀秋といえば、若年なのに大軍を任されたプレッシャーの中、西軍への義理と家康の圧との間で右往左往、最終的に家康の大砲による恫喝で東軍へ寝返るも裏切りの呵責で命を縮めた、という情けないイメージがこれまでは主流だった。しかし近年の研究では、秀秋が東軍に走る可能性は多くが予測していて〃裏切り〃とはいえず、また秀秋自身も、若年ながら優秀な、あるいはしたたかな人物だったという説も強くなっているようだ。今回のドラマでも「小早川はすでに家康に内応」と噂をばらまかせるように家康が指示を出していたし、秀秋のほうも、東軍が本当に勝ち組になるかどうか見極めた上で最終的に決めようと、情勢を見やすい松尾山に陣取り、西軍総大将である毛利軍の吉川広家が動かないことを確認して東軍に寝返るという経緯が描かれていた。これまでずっと、小早川秀秋の派手な「違い鎌」マークの赤マント(下写真)と、優柔不断の情けないイメージとのギャップに違和感があったのだが、今回のキャラクターはこの赤マントもぴったりで、たいへん納得できるものだった。一般に流布されている高台寺所蔵の小早川秀秋肖像画(Wikipediaにも掲載)は、北政所寧々が若くして死んだ甥を偲びその幼少時の記憶を元に描かせたもので、成人後の姿ではないといわれる。
冲方丁『真紅の米』という、小早川秀秋を主人公にした短編が『決戦!関ヶ原』(講談社2014)および『戦の国』(講談社2017)に収められているが、当時まだ「情けない」主流だった秀秋イメージを変えた作品として印象に残っている。「愛情の人であると同時に実益の人」である北政所に養育され、文武に秀でた若き武将として朝鮮出兵でも武功をあげる一方、秀吉の甥で養子という同じ立場にあった羽柴秀次の不条理な死が、深いトラウマとなっていた秀秋。太閤検地に学び、また朝鮮で兵站の苦労をしたことから、戦でなく米作りこそが国の基本と思い、米作りを基本とする新しい世を作れるのは豊臣ではなく德川だと感じて、密かに德川につく決心をする。戦局を一転させた小早川秀秋は、家康に最大の利をもたらしたが、それは同時に家康にとって今後の大きな脅威でもあった。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後、21才の若さで病没、大谷吉継の呪いとか、良心の呵責によるアルコール依存症とか言われるが、この小説では暗示ではあるものの、家康の指示による毒殺が匂わされ「狡兎死して走狗煮らる」の非情で終わっている。いろいろと納得できる興味深い短編で、ディテールを膨らませて長編化が待たれる。「どうする家康」にも、もう少し出番が多ければよかったのにと思われる人物の一人である。
関ヶ原駅から古戦場に向かう所に、東軍を赤、西軍を青で表した大きなパネルがあるが、左下に黄色のマークがいくつかある(下写真)。これが「西軍から東軍への寝返り組」で、小早川の他にも4人の黄色マークが松尾山の麓に並んでいる。最近のTwitterXで、従来の「東軍・西軍」どちらにも属さない「松尾山軍」だとか「松尾山カルテット」などと盛り上がっているのが面白い。脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4人で、もともとは小早川の裏切りに備えてここに配置されていたのだが、家康の意を受けた藤堂高虎に密かに調略されており、寝返った小早川軍と行動を共にして大谷軍を包囲、壊滅させた。小早川の裏切りは警戒していた大谷吉継も、この小物(?)たち4人の足並み揃えた寝返りは想定外で、家康の水も漏らさぬ調略ぶりに愕然としたという。
脇坂安治は、近江浅井郡脇坂庄の生まれで浅井長政に仕え、浅井氏滅亡後は織田から秀吉配下となり、賤ヶ岳七本槍の最年長として活躍。今村翔吾『八本目の槍』(今村翔吾、新潮社2019)に登場している(第40回、発展編3参照)。関ヶ原の戦い後は、伊予大洲藩に加増移封され、大坂の陣には息子の安元が戦功を挙げた。下屋敷が京都伏見の宇治川の島のような場所にあり、安治の官職「中務少輔」の唐名が「中書」であったことから、この一帯が「中書島」と呼ばれた。忠臣蔵で赤穂城受け取りの正使を務める脇坂淡路守安照は脇坂家の四代目にあたる。
脇坂安治の陣(下写真)
『ホントに歩く中山道』第3集MapNo.12 mapA9の下の「若宮八幡」から、マップをはみ出して新幹線線路と名神高速をくぐったすぐの所にある。関ヶ原でいたる所においてある緑色の古戦場マップには記載されており、松尾山の小早川陣への途中にあって、改めて位置関係を認識できる。
▼中書島 『ホントに歩く東海道』第16集 MapNo.64 mapD
朽木元綱は、京都を追われた足利将軍を匿っていた近江朽木谷の朽木一族出身で、浅井三姉妹のお初の夫である京極高次とも姻戚関係にあった。元綱は関ヶ原の戦の後剃髪、牧斎と号し、寛永9年(1632)朽木谷にて84才で死去。遺領は3人の息子に分割されるが、三代将軍家光の時に、末子の稙綱が近江朽木藩藩主として返り咲き、さらに丹波福知山藩に加増移封され幕末まで続いた。
小川祐忠・赤座直保は、よほどの歴史オタクでなければ知らない人物だろうが、小川祐忠の子孫は医術の道に進んだ者が多く、小石川養生所の開祖で「赤ひげ」のモデル小川笙船もその一人といわれる。赤座直保は関ヶ原の戦いの後、前田利長の家臣となり加賀へ移転、息子の代で永原に改姓し、加賀藩藩士として存続。幕末に馬廻役・作事奉行を歴任した永原孝知は、水戸天狗党討伐の指揮を執った。4人組のいずれも小早川秀秋よりは長生きしたが、それぞれ異なる運命をたどったようである。
どこにいる家康 第43回 ギャラリー 関ヶ原(2019年9月)
関ヶ原の古戦場を自転車で回ったとき