●2006年9月29日(金)
 
和田静子さんの『いとしき草花 四季の人びと』を、印刷所入稿しました。新潟の印刷所です。
 とても美しく、内容も濃い、いい本になりました。B5判96ページ、縦組み、全ページ4色カラーです。製本は、並製ですがミシン綴じなので、180度開きます。
 この本は、生命科学雑誌「ミクロスコピア」(藤田恒夫編集長)巻頭に、1995年春号から2005年冬号までの11年間、連載されたものです。
 10月5日の入稿予定でしたが、おかげさまで前倒しで気持ちよく入稿できて、満足です。来週、本書のページをこのHPに作り、アナウンスします。
 もし、この欄を読んで下さっている方で、本書を読んでみたいと思われた方は、発行時までの限定で、特別予約割引(本体価2000円の二割引=1600円+消費税80円、送料無料)で、お分けいたします。「本欄を見た」と、メールの通信に必ずお書き添え下さい。(お)

●2006年9月14日(木)
 
和田静子さんの『いとしき草花』は、日程表を作成し、一瀉千里の状態になりました。今日現在、必要な要素で未入手は、「あとがき」のみです。
 再校正出力は全て終えて、それに検討事項を書き入れました。今これから、再校正を著者にお送りします。
 カバーのダミーもできました。書名は『いとしき草花』ですが、当初サブタイトルを不要としていましたが、著者の希望もあり、2、3の候補案を検討しながら、「四季の人びと」に仮決定してあります。残りは、帯デザインです。構成要素を考え中です。
 とても綺麗で、私には感じの良い本になりました。ページレイアウトの仕事が気持ちいいです。2ページ(1見開き)に1点の草花で42項目。彫刻家佐藤忠良氏の「序にかえて」と、『鍋のなかの解剖学(正・続)』の著者藤田恒夫さんの「本書に寄せて」が収載されます。
 本書は、もともと藤田さんの「ミクロスコピア」誌に連載されていたものです。藤田恒夫編集長の紹介文で本書の内容がよくわかります。この「本書に寄せて」は、許可を得て、本HPに掲載させていただきたいと思っています。

 8月24日の本欄に、突如、ペッテンコーフェルという人のことを記しました。この人のことをみなさんはご存じですか?
 この人の伝記との出会いも、藤田さんによるものでした。翻訳者の植木絢子・川崎医療福祉大学教授を紹介していただきました。
 藤田さんのペッテンコーフェル紹介文は、以下のアドレスの「6.先生のコラム」にあります。
http://www.3bs.jp/mailmag/2006/2006_8m.htm

 植木教授のプロフィールは、次のアドレスに
http://www.kawasaki-m.ac.jp/mw/dept/teacher/07_ueki.html

 植木先生によるペッテンコーフェルの紹介文は、以下のアドレスにあります。
http://www.shujitsu.ac.jp/shigaku/kyoyo/jdg/jdg-contents5-0-9-1.htm

 日本では、なぜ知る人が少ないのか、この人の運命を感じます。この本は、日本では初めての最も詳しい伝記の翻訳本になります。
 タトル・モリ・エージェンシーを通して翻訳出版権の契約が結べる運びです。300ページを超える重厚なものになりそうです。

 「大山街道」本は、まだ取材したいところがあります。こちらはまだ総ページ数の仮決定にも至っていませんが、主要な構成は終わっています。とても時間を要する作業ですが、休まず歩んでいます。出来上がるのが、ホント楽しみ。

 s−okさんの第2弾も、地図にルートを落としながら、いつも感心しています。私も、自分の力量に合わせて行ける部分を見つけて行ってみたいと思っています。この本は、本当に「未知の道の発見」ですね。

 昨日、ビデオテープ12本が届きました。こちらの仕事も嫌いじゃありません。(お)


●2006年9月5日(火)
 
8月30日の本欄に、和田静子さんの『いとしき草花』(仮題)は、しばらく「ぼんやりと待ちます」と書いた翌日、急転直下、方針を一転して、和田さんへの「矢の催促」になりました。これだから編集者というのは信用ならん。若い頃は、「君子豹変ス」なんて、これを正当化していましたが。変わりませんね、性格は。
 迫力の催促の効がありまして、二か月ぶりの初校戻し(と言いましても、無修正か数字分の修正ページの確認通知)と、カバーの絵の決定がありました。
 本文以外の序やあとがきや解説の依頼の段取りができました。束見本依頼、カバーデザインのラフも今日終わりました。
 順調に本文の修正、再校の出力が進めば、月末頃、飯田へお訪ねすることができそうです。(お)

 ついに目撃、自社の本を買う人を!
 一昨日、新宿へ行ったついでに、紀伊國屋書店新宿本店へ行きました。7階の山岳コーナーで、『誰も知らない丹沢』は、まだ平積みにしてくださっている、とほっとした瞬間、隣の隣で本を見ていた人が「丹沢」ともう一冊別の本を持っているではありませんか。声が出そうになりましたが我慢し、その方の動向を見守りました。1月に、やはりこの場所でパラパラと「丹沢」をめくっていた人を見たときは誰も知らない丹沢編集日誌の2006年1月27日)、「念力」を送ったのに本を戻されてしまいましたが、今度はしっかり持っているので、ほぼ買ってもらえると確信しました。
 その方はその後、レジへ向かいました。4、50代の男性で、ザックを持っていたので、もしかしたら山の帰りかも知れません。感動的な瞬間に立ち会え、とても嬉しかったです。
 なんだか気分が高揚し、買おうと思ってなかった『決定版関東周辺沢登りベスト50コース』(山と渓谷社)を、「本はやはり売れると嬉しい」と納得しながら買ってしまいました。やはり、本屋さんに本が置いてあるということは大事だと改めて思いました。

 編集部員の右往左往を更新しました。(こ)


●2006年9月2日(土)
 一日おきに天気が変わります。昨日は、梅雨時期のようなしっかりとした降りの雨があったかと思えば、夕方には晴れました。今朝、自宅では23℃の涼しさで、予報を裏切って、晴れました。明るくてさわやかな一日です。今日明日(今週の週末)は、仕事と雑用で、山へ行けません。

 大山街道を歩いているときに、私が気になっていることを書いておきます。
 歩きながら、今、尾根筋にいるのか、沢筋にいるのか、あるいは斜面をトラバースしているのか、コルにいるのかピークにいるのか、はっきりと意識に上ってくることがあって面白く感じています。東京の真ん中でも、沢か尾根かは、よくわかります。
 こんなことを感じるようになったのは、一年前に平塚晶人さんの地図読み講習を受けてからです。以来、道を歩いていても車を運転していても、気になって仕方ないのです。
 例えば、大きな交差点。これが尾根筋を急坂で下ってきて十字路になり、それから緩やかに登り返したりしますと、「ああ、ここがコルで峠なのだ。だから、昔からの交差点なんだ」と、納得するのです。
 著者の中平さんは、初めから、「行程地図に、登坂か下り坂を入れるのが望ましい」と言っていました。まだ、地図にそれは書き入れていません。できるでしょうか。(お)


●2006年8月31日(木)
 メールでの「愛読者通信」を発信しましたら、ほんとうに嬉しいお便りが、すぐに数通届きました。
そのなかのお一人への返事に書いたことですが、「愛読者通信」の読者、つまり弊社の「未知の道」の購読者は、登山と丹沢に関してはとてもレベルが高いことは間違いありません。それぞれが1冊の本の著者であるくらいと言ってもいいように思われます。
 山の初心者の編集者としては、こんな恐ろしい読者の環境で、よくもまあ本がつくれるものと、戦々恐々です。プレッシャーは相当なものですが、逆にそれは、支持してくださるすごい読者層があるという、恵まれた出版でもあるということで、心して、仕事に励まねばなりませぬ。(お)

●2006年8月30日(水)
 和田静子さんからの初校正の戻しがいっこうにきません。ときどき、お電話をしていますが、特に強い催促はしていません。この本は、すでに「ミクロスコピア」誌に連載されていたものの単行本化なので、もともと修正はほとんどないとの方針でした。それで、すぐにでも発行できると、当初は思いました。ところが、和田さんも少し体調を壊されて、それがブランクを作り、そのまま、留まってしまいました。
 本作りは、わりと短気に短期で攻めまくるエネルギーがないと、いつまでもゴールが来ないものなのです。何十年、編集をやってきてこの戦闘態勢は身についています。しかし、戦闘態勢に入るタイミングはそれぞれですし、この本は、和田さんしだいで、おおらかに作る方針ですので、ちょっとぼんやりしておきましょう。
 その間に、おあとがよろしくなるまで、ちょっと短いエピソードを。明治中頃の話。和田さんのお祖父さんは、農家に生まれ、「長じて村芝居に凝り、周囲のおだてに乗って『役者になる』と、東京に出奔しました。何年もたって故郷に帰ってきたときには、どういう風の吹き廻しか『役者』ではなく『医者』になっておりました」という文で始まるページの草花の絵は、どうだんつつじです。お祖父さんの建てた家の庭がどうだんつつじで造られていたそうです。
 役者が医者なんて、駄洒落みたいでいて、明治の人生を感じますね。(お)

●2006年8月29日(火)
 今日は久しぶりの晴天でした。明るい空を見上げました。
 そして、久しぶりにEメールの通信【愛読者通信】No.14を発信しました。
 この通信は、弊社発行の「未知の道」シリーズ第1巻『誰も知らない丹沢』の予約購読者と、本書挟み込みの「愛読者カード」を送ってくださった方のうち、メールアドレスの記載のある方に発信しています。
「未知の道」シリーズの第2弾、第3弾の制作進捗状況や内容のご案内をしていくつもりです。ときどき、「内輪」の情報があるときもあります。(配信ご希望の方は、メールください)(お)

 ホントに歩く大山街道を更新しました。(こ)


●2006年8月28日(月)
 山登りする人で、「大山は、登るのがつらいわりに、眺望のポイントが少なく、おまけに雨降り山なので、頂上で快晴の見晴らしはめったにない」と言って、大山を好きでない人も多いのです。私は、あまりそんなふうに思っていません。確かに快晴の日は珍しいと聞きますが、私自身は、素晴らしい快晴の眺望が得られた日もありました。
 最近、大山がもっと好きになってきました。大山街道の本をつくっていて、赤坂御門から頂上までを一通り歩き終え、街道のところどころから見た大山の美しさも発見しました。
(どなたか、大山の写真を趣味で撮り続けておられる方はいらっしゃいませんか。情報ありましたら、お教えください)
 それから、s−okさんのバリエーションルート。こちらは、ほんとに素人ではまねできません。当然、私も真似(コピー)山行もできません。しかし、今、s−okさんの2冊目「大山支尾根」(タイトル、未定)の原稿を組んでいて、改めてs−okさんの凄さに驚くと同時に、大山の「未知の道」の魅力について、教えられます。
 素人で行けるところもあります。例えば、大山頂上から「西沢の頭」。ほとんど行く人のない、アンテナ塔の後ろから北に向かうトレースを下り始めると、もうぜったいわくわくです。痩せ尾根と自然林。ところどころ、眺望も開けます。大山が嬉しくなります。
 「未知の道」の2冊が、そんな大山の新鮮な魅力をお伝えできれば嬉しいのですが。(お)

●2006年8月26日(土)
 「未知の道」シリーズ第2弾『ホントに歩く大山街道』(仮題)は、参考資料と本文を分ける方針に、再校修正の途中から切り替えてやっています。間もなくその作業が終了しますので、それから全体的に見直して、改めて再校を出校します。ここが大きな山場になりました。この山越えてもまだ半分かも知れませんが、行く先の高峰が見えれば大丈夫です。
 続いて第3弾のs−okさんの『大山支尾根』(仮題)は、すでに著者の構成案に従って、本文テキストと仮画像のダウンロードを終え、今日、最初の1本を仮レイアウトに流し込みました。
 こちらは、第1弾があるので、そのフォーマットに、とりあえず流し込むだけで形になります。機械的な作業の部分は、合間を縫って進めていくつもりです。地図の準備などの途中で、さて今度は何と出くわすか、それがまた楽しみです。(お)
●2006年8月25日(金)
 『続 鍋のなかの解剖学』の反響レターが、すごくたくさん、著者の藤田さんのオフィスに届いていて、その一部を何回かに分けて弊社にFAXで送っていただいています。今日もさきほど、8人の反響を読ませていただいて感激しています。
 反響レターの差出人は医学関係の専門家が多く、本書の隅々まで一気に読了されている様子がよく伝わってきます。それぞれが興味を持たれた部分の記述が具体的で、私にはとても興味深く、そして参考になります。それは、私が特に「読んでほしい」と秘かに好んでいる一文だったり、私の感想と同じだったりすると、にんまりです。また、専門家として、私には思いつかない感想があると、これまた嬉しいのです。
 書評は、岩波「科学」の短評紹介をFAXで拝読。また、「新潟日報」の署名記事も送信していただきました。
 今わかっているこれから出る予定の書評もあります。いずれご紹介したいと思っています。
 本書を読んでくださった方、メールでも、ぜひご感想をお寄せください。(お)

●2006年8月24日(木)
 新聞では、国際天文学連合の記事で、惑星の定義が話題になっています。「天球上の一点にとどまらない『惑う星』として・・・」という記述に、「フッ」と目が留まりました。「惑う星」かあ。昨日、気象観察の本を買いました。惑星などという宇宙にまではいきませんが、毎日の空の雲を見てみようかな、と思っています。
 死亡記事に、関敬六さん。「スリーポケッツ」なんて古い名前が出て、渥美清さんがなくなった後で、「本当にかわってやりたかった」という話を原稿整理したことを思い出しました。弊社が編集協力した『渥美清の伝言』の中でした。自分のほうが早く死ぬと思ってらした関さん、78歳だったそうです。ご冥福を。

 会社に着いてすぐ、マックス・フォン・ペッテンコーフェルの伝記を読み始めました。すぐに、少年時代のマックスについての記述にであいました。
 両親の経済的な苦しみ、心配事、いざこざが続く中で、「少年の生きる喜びは濁ることなく」満足していたそうです。
 「例えば、露がついている蜘蛛の網とか、花の様々な色合いとか、コガネムシの羽が虹色に輝いている様子とか、(略)・・・雷が鳴って雨が降った後に、あんなにたくさんのミミズはどこから出てくるの? カタツムリが歩いた後に銀色に光る跡が残るのはどうして?」次々と新しい驚きを見いだして、とどまることなく質問が湧き出て、抑えがたい好奇心が彼を支配していたといいます。そこを読んで、なんていきいきした少年の姿だ、と感心しました。さて、そんな少年はどう育っていくのでしょうか。これから楽しみに読み進んでまいります。(お)


●2006年8月23日(水)
 
今夏、遠くへはどこへも行く予定がなかったのですが、8月20・21日、甲斐駒ヶ岳を登ってきました。8月7日の更新記録に書いた同級生の慰霊をかねて、というか、呼ばれるように行ってきました。山仲間のNさんと同行でした。
 泊まった仙水小屋の小屋主さんが、ヘリコプターの手配などをしてくれたご本人で、発見時のことを話してくれ、倒れていた場所も教えてもらって、線香を上げてきました。かなしい死に方でした。
 甲斐駒ヶ岳登頂は、朝4時に仙水小屋を出て、駒津峰までの途中でご来光を見、峰では、素晴らしい雲海と、北岳、仙丈岳、栗沢山・アサヨ峰と早川尾根の眺望が楽しめました。しかし、駒ヶ岳頂上は、7時30分頃でしたが、すでに霧中でまったく展望がありませんでした。(お)
●2006年8月17日(木)
 神奈川県の自宅から東京世田谷にずっと通勤しているのに、その車中や会社から富士山をしっかりと見始めたのは、数年前のことでした。見えることさえよく知りませんでした。それからずっと経って、ついこの前、大山もくっきりと見えることに気づきました。関心を持っていないと、何も存在しないのと同じですね。
 そして、大山街道を歩くと、道中に見える大山の美しいこと。裾野が広がっている角度からの山容は、富士山に似ています。
 先日、大山街道を「ホントに歩く」取材で、その残っていた区間「伊勢原〜下社」を歩いてきました。台風の影響で不順な天候ながら、歩いているときは夏の陽差しになって、首筋など、しっかり焼けました。ふだん電車やバスで通り過ぎているところを歩くと、また違った見え方がするのが不思議です。その日は、残念ながら道中で大山はよく見えなかったのですが、その代わり、下社から相模湾と江ノ島が美しく見えました。それから、何度か歩いている善波峠に続く尾根筋も見えました。(お)

 ホントに歩く大山街道を更新しました。咳止め地蔵にも寄ることができ、お札を買いました。こちらも補足いたしました。(こ)


●2006年8月16日(水)
 
たった今届いた「愛読者カード」を読んで、驚きました。「細川橋から千鳥橋に抜けた(単独行)ばかりだったので、(この本に)出てるかなと手に取った」とあります。葉書に記された書店名を見て、よくぞその書店に在庫展示していただいていたと思いました。
 「細川橋〜千鳥橋」つまり二本杉峠は、s−okさんの周辺でもよく話題になります(「地蔵平の女の子」でも登場)。『誰も知らない丹沢』30ページの写真は、登山道入口を訪ねて私が撮ったものです。
 「この書を参考にして少しずつ奥に踏み込んでみたい」。カードを送っていただいたのは、なんと登山歴55年、御年79歳の方と知って、頭が下がりました。そして、近くの書店でたまたま本書に出会われ、わざわざ「カード」を送っていただいたことに感謝感激です。
 それにしても、本はやはり書店に並んでいてほしいものだと、つくづく思います。(お)


●2006年8月11日(金)
 
和田静子さんの義兄(姉の夫)は、医学部を出て海軍に入りました。ソロモン諸島ラバウルの「ブーゲンビル沖夜戦」で、乗っていた鑑が沈没し、7日間、昼は焦熱、夜は酷寒の漂流を続け、多くの戦友を海に失いました。漂流中、日本の零戦が通りかかり、翼を振って励まし、非常物資の箱を落してくれて、救われます。箱には「香月少尉」の名がありました。漂着して一命を得た後、お礼に少尉を訪ねると、応対に出た中尉は、「少尉は五日前に死にました。あの垣根に咲く花がブーゲンビリアだと彼に教わりました」と語りました。義兄が島を去るときに中尉を訪ねると、「中尉は一昨日、戦死されました」と言われました。大型船で帰国することになったとき、義兄は体調をこわし、別の病院船で帰国したのですが、大型船は轟沈し、その乗員に生存者なしで、戦友たちを亡くしました。その後も、もう一度、九死に一生を得た話を、和田さんは、直接、お義兄さんから聞いたと書いています。戦後は、70歳まで産婦人科を開業し、勲章や恩給をかたくなに受け取らなかったそうです。

 こんなエピソードが、ブーゲンビリアの花のスケッチ画に添えて、和田さんのしっとりとした文体で詳しく綴られています。

 私の母の兄二人も、戦死しています。先日、父の法要で行ったお寺に、そのおじたちの立派なお墓があり、おまいりしてきました。
 まもなく、お盆と終戦記念日です。日本の夏は、戦争という歴史のなかの、人生のドラマをよみがえらせます。(お)


●2006年8月10日(木)
 
体が辛くて参っています。それに比べたら暑いのなんて平気で幸せ。3日前からは、(汚い話でごめんなさい)鼻汁が止まらず、まるで蓄膿症で、頭がパーになって、仕事がまるで進みません。
 今年はどうしたんでしょう。5月末に軽い風邪を引いたのに始まり、それをこじらせて高熱が二度。それからずっとすっきりしません。高熱のひどい風邪のときに、結局、医者に行きませんでした。これが大きな失敗です。馬鹿なんです。つまりインテリでない。野蛮なんです。
 先週、じつはもう風邪は治っているはずと信じこもうとしていたのに、微熱が出て、タチの悪い咳まで出てぶり返したので、ついにたまらず、意を決して診察を受けました。医者が言うには、医院を訪ねたのは4年ぶりだそうです。ずっと恐くて(恐いのは、アルコール性のγーGTPの値)受けなかった基礎的な検査を、このさい、無料のこともあって全部受けることにしました。健康なときに悠々と検査を受けて、それで思いかけず大きな病気が発見されるのなんていやだけど、今、「もしや大きな病気では」と思っているのだから、それで何もなければ儲けもの、なんてこざかしい考えでした。それが、結果的にばっちりあたりました。
 検査結果は、医者も首を横にして言う、「何も悪いところはありません」。よかったあ。でも、今現在のこの辛さ。市販の鼻炎薬では治らないので、抗生物質を処方する、ということでした。ただひたすら鼻をかんでりゃ治ると判断する浅はかさ。昔の人は大変だったでしょうね。私も自然治癒力が昔の人並みになりたいよ、なんてまた欲呆けの発想をしてしまいます。

 今夏はこの体の不調だけなく、いろんな事情が重なり、夏山の計画がありません。こんな体調では、行きたくてもいけませんよね。
 「本当は恐い家庭の医学」というテレビ番組をご覧になったことはありますか。ちょっとした咳、しびれなど、見落としてしまう兆候が、実は重大な病のサインなのでした、というホラー番組です。このテレビ番組の本(幻冬舎発行)の制作は、弊社がお手伝いしました。そしたら、数万部の初刷が間もなく売り切れるそうで、第2弾制作のお話が、先日突如わき起こりました。すでに、2本の番組のテープ起こしをしましたが、やはり恐いですよ。「そのまま放っておくと大変なことになりますよ」と、これからまた、脅されながらの仕事です。(お)


●2006年8月9日(水)
 飯田市の和田静子さんから、お元気な声で電話があったのは、今週の月曜日でした。
 6月8日に飯田市を訪れ、そのときの元気なお声を聞いて以来、ずっと体調を壊されていました。久しぶりの明るいお声に嬉しくなりました。
 これから弊社で作ろうとしている和田さんの『いとしき草花』(仮題)の一文に、次のようなエピソードがあります。

 和田さんのご主人のおばさんは、大正7年、同志社大学を出て、22歳で長崎高女の英語教諭になりました。翌年、突如、腕の発疹が「らい病」と診断され、客車一輌を借り切って御殿場のらい病院に運ばれました。親戚も友人関係もその日を境にいっさいを断絶させられました。ところが、その後、病院の神父から「あなたはこの病気でないように思う」と再診をすすめられて、「らいにあらず」と誤診が判明。神父さんから、「もう病院を飛び立って、自由にするように。日本が嫌なら、フランスへ行ってはどうか」と勧められます。
 でも彼女の心は定まっており、そこに留まって働きたいと申し出ます。早速、看護婦の速成科に学んで、その病院の仕事に就きました。
 連日、患者の化膿した患部を洗い、軟膏を塗り、包帯を交換し、また膿やカサブタのこびりついた大量の着物や包帯を洗濯しました。「処置室は、患者の血と膿で雨後のぬかるみのようになり、その臭気が大変だった」といいます。
 その後、12代の院長の片腕として働き、平成元年、92歳で昇天されました。

 すごい人生ですね。こんなエピソードが、本書本文中の一つ一つの草花のスケッチに添えてあります。先日、その原画を、ゆえあって新潟の印刷会社でスキャニングしていただいて、デジタルデータを送ってもらいました。
 文章は、仮組版が終わっているので、和田さんが「お盆の人間台風(お孫さんたちがやってきて大暴れすることの和田用語)」を過ごして、体調も整ったら、初校正が届くでしょう。
 また飯田市を訪ねて、和田さんのご主人の和田穆さんのお話もお聞きたいし、当地の山々を見るのを楽しみにしています。(お)


●2006年8月8日(火)
 先日、NHKテレビのJディレクターから久しぶりに電話をいただきました。弊社が編集した『92歳、現役サラリーマン』(NHK放送番組「にんげんドキュメント」)の著者です。当時92歳のサラリーマンだった主人公の井上さんは、今年95歳でいよいよ退社されるそうです。その退社の様子が8月11日(金)夜9時のNHKテレビのニュースで放送されるという、そのお知らせでした。
 井上さんは、現在もお元気だそうです。このニュース番組をご覧の方は、ちょっと気に留めてみてください。(お)
●2006年8月7日(月)
 数日前、高校の同窓会のMail通信を受け取って驚きました。
 小・中・高が私と同じで、しかも誕生日まで同じであるH君が、今年2006年1月9日に甲斐駒ヶ岳で「滑落・凍死」したというのです。私は、高校時代以降にたぶん一度も彼とあったことはありません。お互いの生家は数百メートルしか離れていず、生家に帰ると、彼の家の前もいつも通っていましたけれど。とてもショックです。
 まだ行ってもいない甲斐駒ヶ岳を私が歩いている夢をみました。夏の山ですが。

 今日の通勤電車は、珍しく座席が空いていました。すぐに気づきました。お盆休み週間。
 電車を降りると、空の雲をしばらく見つめました。夏の雲の観察です。
 この一週間、会社の前の「環七」が静かになります。空気もきれいになります。
 夏にめったに富士山は見えませんが、お盆にひょっこり姿を現すかも知れません。(お)

 ホントに歩く大山街道編集部員の右往左往を更新しました。(こ)